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タカラヅカ日記③エリザベート〜歴史ある魅力の演目〜

ひとは生まれた時から【死】に向かって生きていると誰かが言っていた。
確かにこの世に産まれ落ちても僅か数時間で失われてしまう儚い命もあればよわい百歳を過ぎても尚、健在でそれこそ天命を全うしたと表現される程の長命な人まで…ひとの【命】の長さには残酷とも言える違いが在る。それが【運命】と言うのだろうか?生まれた時から?生まれる前から…決まっているのだろうか?その全てが詳細に決まっている訳では無いだろうが……幾らかの【運命】は決まっているんじゃないだろうか?と想っている。それが【宿命】とも言える抗えない定めでは無いのだろうか。運命の出逢いにより【運命の歯車】が未来に向かって動き出す…まるで最初から決まっていたかの様に。何がどう変わろうが、もう変える事は出来ないとでも言うように。


劇中で描かれる《トート》は黄泉の帝王…そもそも【天国】やら【冥界】やらは人間が作り出した架空の存在。【罪】を犯してしまう人間を戒め思い留まり、悔い改めさせる為に存在するのではないのかと思ってるのだけれど…かと言ってその存在を否定も出来ないのも事実だ。神への救いを肯定させる存在なのだから…
【煉獄】とは天国と地獄の中間の様なものなのだろうか?仏教で言う閻魔様の裁判のような?
殺人を犯し獄中で自殺した《ルイジ・ルキーニ》は天国には行けないけれどその行動の理由を問い詰められる審判を受けている。そこで登場するのが《トート》とエリザベートと共に生きた人々なのだ。ルキーニが見ていた《トート》とエリザベートが見た《トート》は果たして同じものなのだろうか?更に言うならば《ルドルフ》が友だちと言った彼は本当にトートだったのか?劇中では同一人物が演じるが、その存在は各々違うのでは無いのかと思っている。それぞれの置かれた立場や環境により自ら産み出した存在だったのではないのだろうか?

僅か16歳で名門ハプスブルグ家へと嫁いだエリザベート…皇太子が選んだのは母親の期待通りに花嫁修業を完璧にこなした姉のヘレネでは無かった。彼女は皇太后ゾフィーにとっては自分の計画を台無しにした張本人であって気に入らない娘だった。しかも姉(ヘレネ)とは違い父親譲りの奔放過ぎる性格でまだまだ無邪気な少女…規律と統制を重んじる宮廷内の調和さえ乱しかねない存在。皇帝としてパートナーを選ばなかった我が子ではなく選ばれたエリザベートへ不満が向けられていく。自分が認められていない事を感じとったエリザベートが自らの逃げ道の為に産み出されたトート。その存在は彼女の危機的な状況化で顕在化する。死んでしまいたいと思う絶望感と死ねないと思い留まる彼女の強い心の葛藤が生んだ存在と思えるのだ。

幼い頃から寂しい想いを抱えて孤独な皇太子ルドルフは母親を慕う淋しさからその穴を埋める存在として友だちのトートが生み出された。絶対君主制に於ける帝王教育を受けるその成長過程でどのような存在で在ったのかは、その死の直前に姿を現したトートへ向けられた言葉で証明される。傍から見ればまるで独り言を言っている様にも見えたかもしれない…孤独な皇太子の唯一心を開く事の出来る話し相手。皇帝である厳格な父と対立し、一番の理解者だと思っていた存在の母親に拒絶されたと感じた皇太子にとって最後の理解者こそがトート【死】だった。

自分の今の苦しい状況も、世の中が苦しいのも国のテッペンでふんぞり返っている王族(支配者)が全部悪い!そんな思想は革命全盛期のヨーロッパでは珍しくない事だった。ただその思想が危ない思い込みにより危険思想となったルキーニの目の敵となってしまったのが皇妃エリザベートだった。どのくらいの期間追い求めて居たのか実際には分からないけれど彼女を含む王族への恨みを正当化する為に生まれたのがルキーニにとってのトートではないだろうか?冒頭の煉獄の裁判で裁判官に「いったい何を言ってるのだ!」と言われる台詞がそれで繋がると思うからだ。ルキーニにとってのトート閣下も同じくその他の人には見る事が出来ないのだ…万能とも思える裁判官にさえ。


それぞれの心の葛藤が産み出したもの…それが【トート】と云う存在だと思えるのだ。それこそが【死】の象徴である黄泉の帝王だったのだから。そういう意味で【死】に魅入られた運命だったのだろう。
どんなに最強の王で在ろうとも何人なんびとも【死】から逃れる事は出来ないけれど、前向きに【生きる】事を願うことで【活きる】事が出来る。しかし【活きる】事を半ば諦めてしまった様に思える人間にとっては【死】はとても身近な存在なのだ。常に意識から追い出す事の出来ない共存者。それはどんな人にも有り得る事だけれども【神】と言う存在に縋ることにより、拠り所を作って希望を持ち続ける。拠り所を【死】に求めてしまった彼らにとって【死】にゆく事こそが開放だった。皇太子ルドルフが亡くなった時に棺にすがるエリザベートが「今やっと楽になったのね」と言う台詞があるからだ。
同じく自分らしく生きたいと願っていた彼女がルキーニの死の刃を受け入れて昇天するラストは、エリザベートが人生を終え【死】を受け入れた事に象徴されている。黄泉の存在で在ったトートが昇天して【愛】に変化した様な演出。皇帝や息子に愛され求められた彼女で在りながらも満足出来ず追い求めていたのは【自由と言う名の解放】だったのか?それとも【死と言う名の愛】だったのか…


だからこそ、それぞれの立場や状況に拠って演じられる《トート》の温度感に違いがあるのだろう。其々の解釈するトートへの感情も合わせて変幻自在な存在。もしかしたら彼らにとってトートは鏡に映った自分自身なのかも…なんて思ってしまいました。そのくらい人心を操り負の感情を引き出しに来るのです。だからこそ他者には見えない存在なのでしょう……妖しく光る眼差しは全ての感情を見透したかの様です。何度も何度も繰り返し演者の違う《エリザベート》を見ている内に感じた感情はまだ纏めきれないのですが…少しだけ書き出してみました。まだ未見のものがたくさん有りますのでこの辺りで纏めたいと思います。

歴代、その組のベストとも言えるキャストで構成される舞台『エリザベート〜愛と死のロンド〜』役替りも多く、それぞれの役への解釈に応じて演じられるトートの反応に改めてトップの凄さを感じます。初めてその事に気付いたのは役替りを全幕通して見比べた時でした。あれっ?気の所為?何か違う気がする!シーンを戻して確認。更に手早くダイジェスト版と見比べると微妙な違いに納得。パンフレットも読み返すと、その事に触れてありました(笑)本役とは別の代役も大変だけど…役替りまで有ると更に大変そうで見る側は楽しみでしかないのが申し訳ないくらいです。更には歴代エリザベートには男役ながら演じられている瀬奈じゅんさんはルキーニからトートまでされた唯一の役者さん。お腹の底から声を出す男役の発声から喉を使い胸から頭の先に伸ばす高音で歌う女声を演じるのは大変な状況だと感心するしかありません。
演じる者にとって極めきれない満足感が観る者を魅了する理由のひとつなのかもしれません。
東宝版の再演も先日告知がされました。30周年に向けて宝塚でも数年の内に再演されるのでは無いか?と期待しています。月組ファンのわたしはルキーニを好演した月城かなとがトートを演じる姿を観たいと思うのですが…2014年の花組さんから一巡しているからどうだろう?月組は連続再演の多い組だから可能性はありそうな気がします。2〜3年後なられいこちゃんもトップとして丁度良い時期では?なんて勝手に妄想する毎日です(笑)是非月組での再演をお願いしたいです!!

先ずはコロナが落ち着いて、各組とも休演のお知らせがコールされない事を切実に願います。
宝塚に限らず、劇場で直前での休演など観る者も演じる者にとっても非常にツライ告知が失くなりますように…

まとまりの無いエリザベート愛を書き連ねました。

#宝塚歌劇団

#エリザベート〜愛と死のロンド〜



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