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『怪物』の感想を書く

はじめに

実はこの映画は6月2日公開らしいのだが、自分が鑑賞したのは7月26日と結構遅め。
特にこの作品を観ようと思った強い理由がある訳ではなく、「なんか映画観たい!」と思った瞬間に一番時間の都合が良く、かつ興味が湧いたのがこの『怪物』という作品だった。

確か劇場で何度か予告編を目にしてはいたものの、内容自体は全く予想がついておらず、そういう意味では非常にドキドキしながら映画館の席に着いた。(2割位は「もしかしたらガチホラー映画なんじゃね?」と思っていたのは内緒)

という訳で以下ネタバレありでの感想。

麦野早織編

最初は主人公の一人である麦野湊の母親目線でストーリーが進んでいく。
ここでの主題は当然「学校で起きている湊周りの事件」なのだが、あくまで母親の目線でしか語られないため、我々としても非常に不可解な部分が多い。
断片的に見えてくる情報から「何かが起きている」のは明らかなのだが、それが一体何なのか。それが全く分からない。

劇中では湊の証言もあって、早織は「息子が担任教師に殴られた」と判断。学校への殴り込みを繰り返していく事となる。
この部分で興味深いのが、明らかに学校側が悪として描かれている所。担任である保利先生もそうだし、なにより校長を含めた学校側の人々の態度があまりにも悪すぎる。明らかに用意されたカンペを読み上げるだとか、亡くなった校長の孫の写真を早織に明らかに見せつけるように置いているだとか。
脳死で観ていたら「なんて酷い学校なんだ! 湊がかわいそう! 早織の言う通りだ!」と同調してしまうだろう。

だがしかし、そういった部分の描写があまりにも露骨すぎて逆に疑念が深まってしまう。
「この学校で何かしら問題が起きているのは確かだろう。では誰が被害者なのだろうか。本当に湊? それとも星川くん? もしかしてこの先生が虐められてるんじゃないだろうか。だとしたら黒幕は? 校長? それとも…」
そんな事が頭をぐるぐるとしていた。

結局「担任による生徒への暴力があった」という事が認められるも、湊の様子も含め釈然としないものが残る。

そんな中台風の日を迎え、早織視点の物語は終わりを迎える。

保利道敏編

時間をガールズバー火災の日まで戻し、次に始まったのが湊の担任である保利先生目線の物語。ここで時間が急に巻き戻った事に少々ビックリしたが、「火事」という分かりやすいアンカーのお陰ですんなりとこの展開を飲み込むことが出来た。

早織目線での保利先生というのは、まさしく「やる気のない教師像」そのものであった。(当然我々観客の印象も良くない)
だがここで描かれたのは、ほぼ理想と言ってもいいほどの立ち振舞を見せる保利先生の姿であった。確かに少し変な趣味こそ持っているものの、とても生徒思いだし、彼の事を理解してくれている彼女もる。(話し合いの最中に食べてしまった飴も、彼女から元気付けで貰ったものと判明するとだいぶ見方が変わる)
今までの保利先生の印象とは正しく真逆である。そんな彼の目線で物語を追ってみると、学校で起きていた一連の事件、そして「麦野湊」という人物の恐ろしさがどんどんと浮き彫りになっていく。
(ここで、実は早織が弁護士まで雇っていた事が明らかになるのも面白い)

実際この保利という人物がやってしまったのは「教室で暴れている湊を止めようとしたら、鼻に肘が入ってしまい出血させてしまった」事だけ。
要するに「何もしてないにも関わらず」、保護者たちの前で謝罪をさせられ、週刊誌にあることないこと(というか大体ないこと)を書かれてしまい、挙句の果てには彼女とも不仲になってしまう。

そんな状況にも関わらず、彼は作文に仕込まれた縦読み(横読み?)から真実の一端に気付く。
そこで台風も厭わずすぐさま湊への謝罪をしようとし、泥だらけになりながら生徒達を助けようとしていた姿を見ると、彼は本当に先生として素晴らしい人間だったのだなと感じる。作中でトップクラスに善人じゃないかこの人。

ただ時折言っていた「男だから〜」みたいな発言は良くなかったのだと思う。この作中だと特に。

結果的に保利先生は、生徒・学校・親の板挟みとなってしまい、全ての責を負う羽目になってしまった訳で、この物語一番の被害者と言ってもいいだろう。ぜひ彼には救いがあって欲しい。

麦野湊・星川依里編

前の2つが問題編だとしたら、この3つ目が解答編。尺もここまでで1時間、ここからが1時間くらいだったので、いかにこの「子供編」が大事なのかが分かる。

麦野早織目線に、保利道敏の目線も合わさることで物語の大筋は見えてきていたのだが、ここで一気に全ての謎が明らかになっていく。
虐められていたのは誰なのか。ガールズバーがある建物に火をつけたのは誰なのか。湊は暗いトンネルの先で何をしていたのか。自分の孫を殺してしまったのは校長だったのか。

「星川依里が虐められていた」。これが大前提の事実として存在する。そのイジメの理由は学校での彼の立ち振舞もあるかもしれないが、「父親に虐待されていた」事にも原因があると推測できる。
では何故星川くんが虐待されていたのか。それは「彼が同性の事が好きだから」だろう。最近よく聞くLGBTの「G」、それが彼だった訳だ。

最初「豚の脳みそ」だの「病気」だの言われていて全然ピンと来ていなかったのだが(統合失調症のような精神疾患なのだろうかと思っていた)、「◯◯ちゃんを好きになった」「病気が治った」のくだりでようやく合点がいった。(それ以前にも電車内で2人が良い雰囲気になるシーンがあって「まさかね」とは思っていたが、まさか本当にそのまさかだとは)

そして恐らく、麦野湊自身も同性が好きなのである。これが判明することで、序盤からの疑問点が一気に解決していく。
彼が2年生の時に書いたという「シングルマザーになりたい」という作文の重みであったり、母親からの「結婚して普通の家庭を築いて欲しい」という期待がどれほどの重荷であるかなど。
星川くんが「ドッキリ」でキスさせられそうになっていた時に、ああいう形で止めるしかなかったのも頷ける。(序盤にテレビの「ドッキリ」に妙な反応をしていた理由も後から分かる)

小学5年生という多感な時期に、自分が「同性の男の子が好き」と自覚してしまうというのはどういう事なのだろうか。自分には想像すらつかない。
そもそも「異性を好きになる」ことですら周りからイジられる対象になるほどだ。それがましてや同性を(しかもいじめられっ子)、なんてことになったら、クラスでの立場がどうなるかなんてのは想像に難くない。
そんな状況でシングルマザーである母親からの「普通の」期待を背負い続ける事はどれほどの重荷だったのだろう。

そこで彼らが縋ったのは「ビッグクランチ」だった。(まさか『グリッドマンユニバース』に続いてここでのこの言葉を聞くとは)
彼らはビッグクランチを「時間がビッグバンまで逆戻りする」という解釈をしていたが(そこは年相応っぽい)、それこそ「ノストラダムスの大予言を信じるしか無い」くらいの状況に追い込まれてしまっていたのではないだろうか。

台風を「ビッグクランチ」と信じ込み、予め準備した電車に乗り込んで「これから生まれ変わることが出来る!」と楽しそうにする彼らを見ていると、なんとも胸が痛くなる。

全編通して

さてそんな訳で、ビル火災の日から台風の日までに何が起きていたのかが、ほぼ全て解き明かされた事となる。

当初悪人だと思っていた人も、実は良い人であったりそれぞれに事情があったりして、結局誰が悪かったのかが分からなくなってしまった。

察するに一番の問題は、湊が真実を語らず、あまつさえ嘘まで吐いてしまった事だろう。(一方で星川くんの言葉はほぼ全てが真実だった)
ただ、じゃあ湊が悪いかと言われればそうではなく、彼には彼の重すぎる苦悩があったのも事実。

そんな所に学校側の隠蔽体質だとか、色々なボタンの掛け違いが重なって結果的にあんな風になってしまった訳だ。

何と言うか、救いのない話だなあと。

ラストシーンに関しても様々な考察が出来ると思うが、基本的には「2人共死んでしまった」というのが一番分かりやすい解釈だと思う。
これを「救いがない」と捉えるか、「救われた」と捉えるかは人それぞれだろう。(個人的には前者寄りかな)

湊たちは明確な行為としての自殺を行った訳では無いが、概念としての自殺を強く望んでいたのだと思う。(湊が「生まれ変わり」の話を何度もしていたのもそれが要因だろう)
勿論彼らが明確に死んだ描写がある訳では無いのだが、それでも子供が亡くなるのはどうしても気持ちがどんよりとしてしまう。(ただ最後の彼らがとてもとても楽しそうだったのだけが救いか)

クィア・パルム賞

後から知ったのだが、この映画はカンヌ国際映画祭で「クィア・パルム賞」を受賞していたらしい。この賞はLGBTやクィア(LGBTに当てはまらない性的マイノリティ広範的に包括する概念)を扱った映画に与えられるのだとか。
なるほどなぁ。

正直この事を鑑賞前に知っているだけで、だいぶ見方が変わったのではないかなと思う。
何の前提知識も無かった自分は、結局今回の物語の中核が「同性愛」だと気付いた時に「ほぁーーーーーーーんなるほどねぇーーーーーー」となった。良くも悪くも。

最近ネットなどで見かけるLGBTに関する話題は、正直好意的に捉えられるものが少ない。
自分は元々そういった物に対してニュートラルな立場だった(つもり)なのだが、どうしても最近は身構えてしまう部分もある。

ただ今回劇中の事件を引き起こしてしまったのは、そういったLGBTに対する偏見だというのも事実。
自分が今、中立的な立場でいられるのはあくまで傍観者だからで、例えば自分がその立場だったら、自分の子供がそういう立場だったら。自分はどういう振る舞いをするのだろうか。そんなことを考えてしまう。
(星川くんの父親は、作中だと明確に悪役寄りの人物として描かれている。ただ父親としての心境を考えると、どうしても憎みきれない部分もある)

切り取り

この作品で印象強いのはやはり「切り取り」のタチの悪さだ。これは最近のインターネッツでも議論されており、「事実の一部だけを切り取って組み上げられた虚構」に苦しめられている人も少なくないと思う。
特に早織のパートは事実誤認をするように強く誘導されていたと感じるが、これは現実でもよくある事。

「じゃあ切り取り報道に惑わされないようにしよう」と、言うのはとても簡単だが、実際はとても難しいことだと思う。
例えばこの物語の中で、早織が自力で「息子は同性愛者だったんだ」という事実にたどり着くことができるだろうか? おそらく否だろう。(保利先生に教えてもらうルートがギリあり得るくらいか)
母親が、母親だからこそ、何より大事な息子の一番の悩みに気付くことができないのだ。真実に到達することは決してない。

それは我々にも同じことが言える。
解答編があったからこそ我々は全貌を理解することができたが、もしこの映画が早織編だけだったら? いや保利先生編まであったとしても、真実には到達できないだろう。少なくとも自分は無理だ。分かったつもりになって変な解釈をしてしまうのがオチだろう。

真実というのはとても遠いところにあるのだなぁ、としみじみ思う。

まとめ

一つの物語を複数の視点から描き、真実が後からどんどん明かされていく構成という事もあって、全てを把握した上でもう一度最初から観たくなるタイプの作品。もう一度観に行こうかなぁ。

子役の2人の演技が凄まじかった。役どころとしては非常に難しいと思うのだが、「演技」らしさを一切感じない、まるで隠し撮りをしたドキュメンタリー番組でも観ているかのようなリアリティだった。すごい。

タイトルも予告も含め「怪物」というワードに非常に引っ張られてしまう作りになっている。本当に怪物が存在するのか、それとも人間こそが怪物なのかと色々と想像してしまう。
だが実際この作品において「怪物」という単語はそこまで重要なものではなかったように思う。なんとなくミスリードされた感。むしろ怪物というのは身近な存在なのかも。

早織パート、保利パートと、後半の子供パートではだいぶ印象が異なる。
保利パートまでは、まるでよくできたミステリー映画を観ているような気分だった。だが子供パートでは先にも行った通り「あぁ同性愛かぁ…」という感情が先行してしまって、ちょっと興を削がれた部分はあったかも。
途中まで「一体この物語をどこに着地させるんだ…?」とドギマギしながら鑑賞していたので尚更。
いや面白かったけどね。

この作品、実は坂本龍一にとって映画音楽として遺作となる作品。
自分は音楽方面ではからっきしなのであまり触れられないのだが、劇伴がかなり控えめなこの作品で、ときおり流れる「Monster 1」は、場面場面で色を変えてくる非常に印象的な曲だった。

星川家でウォーターサーバー自体は置いてあるのだが、水が空っぽで結局水道水を飲んでいるところがなんともリアルだなぁと感じた。

個人的には非常に面白く、最近あまり使っていなかった脳の部分が刺激される作品であった。ただ人に勧めるかと言われれば結構うーん。せっかくお金を払うんだったらもっと楽しい映画を観た方が良い気もする。
まあでも「邦画はクソ!」って脳死で言っちゃうような人には観てほしいかも。

とりあえず時間があったらもっかい観てこようかな。ではでは。

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