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私の英語の失敗

 今日はいくつかやらなければならない仕事が片付いたので、戯文を記してみました。お出掛けの御用が取り止めになるなど、お暇でしたらどうぞお付き合いくださいませ。

 恥ずかしい(また長い)昔話です。渡英の予定を延期した長男たちと英語について話をしていて、34年ほど前に、じゃがいも畑が広がる北米の田舎の村で11カ月を過ごした折の様々なドジ、勘違い、へまを思い出して、自分のことながら苦笑し、家族もふだんお殿様のごとく一家に君臨している父親の失敗の数々をアハハと笑っていました。かつて大学の1,2年生に英語を教えていたこともある、一応多少は使えるような顔をすることもある白髪のおじさんの若き日の過ちを、誰に頼まれた訳でもない酔狂ですが、いくつかお披露目いたしましょう。

 歴史(米国史)の授業中、Do you want to read the next paragraph? と訊かれ、それを字義通りに「ぼくは読みたいか、いや別段読みたいわけではない。上手な母語話者の連中に任せよう。そして留学前の忠告で聞かされたように、はっきり諾否を伝えよう」と内的対話を経て、No, I don’t. さらには、徹夜の読書でくたびれているときなど、Not at all! と作り笑顔で応えていた。もちろん朗読の意思について「訊かれ」ているのではなく、柔らかく「命じられ」ていたのであり、何となく教室の空気がヒヤリとすることに次第に気付きましたが、数週間はこの頓珍漢を繰り返したと思う。  

 had better + inf.という言い回しをきちんと学ばず、「~した方がいい」と機械的に覚えていたため、親切なお申し出、例えば、Do you want me to share this cake with you? とか、Shall we take you to my grandpa’s launch on the weekend? だのに対して、「そうしてもらうとありがたい」のつもりで、You’d better do it. (むしろ、「それ、やっとかんと大変なことになるぞ」)と意味不明の恫喝を行っていた。これはわりと早々に正してもらえました。

 英語の理解力の問題ではないかもしれませんが、髭剃り用のムースの瓶を、もしそれであるならば必ず無精ひげに泡を塗りたくったおじさんの顔のイラストがあるものだと思い込み、整髪を行う際に常用していた。11カ月で日本語を話したのは独り言を除けば2分にも満たない環境でしたから、スタミナが切れてくるというか、英語を読むのが面倒になることもあるのでした。洗面所には浴槽やトイレが併設してあるため、目撃され誤りに気付くまでに半年近くを要し、目撃者として現場に居合わせた下宿先の同級生は、Are you going to shave your hair?! と一たび驚き、事情を説明すると、床に転げながら嘲笑を浴びせてきました。現在のぼくの白髪の原因は体質なのか、このムース塗布に因るものなのか、40日に亘るチベット滞在中一度も洗髪できなかったせいなのか、科学的な検証はまだです。

 何語においても、言葉の上達のためには、失敗を怖れるな、とはよく聞かれる言葉です。もちろん、失敗しないで済むならそれに越したことはありませんが、注意深くあろうと努力したとしても人は、多くの経験に根差す絶え間ない知識の更新と、その微妙な塩梅を必要とする言語活動において、多種多様のミスを絶えず冒すものです。上の例に示されるぼくのいい加減さはやや度を越しているかもしれませんが、腕が上がったならその分、スタイルへの希求が生じるなど、要は鋭敏な言語感覚を養えばそれだけ自身の表現の不完全さが目に耳につく、という具合にできており、そうであれば〈失敗〉から完全に解放されることは(少なくとも)非母語において残念ながら果たせぬ夢であるのだということになります。そこで、完璧であろうとする余りに口を噤んでばかりいては稽古にならぬ、という一つの態度が生まれてくるのでしょう。

 殊に、どちらかと言えば生真面目で神経質であると言えそうなのが、この日本語を特に勉強した覚えもなく解読できる人々、すなわち日本人であり、その日本人にとっての非母語による言語活動と言えば、多くの場合、語彙も統語法も自己表現という営みにおける押し出しの強さも母語のそれとは大いに異なる英語であることから、非母語と(思い出してはあっと叫んでもみ消したくなるような)失敗の経験というのは強く分かちがたく結びついているのかもしれません。

 言語の習得を自転車に乗れるようになることとの類比により、つまり習うより慣れよ式に、説明することもどこかで聞いたことがある気がします。つまり、最初は誰でもぎこちないものであろうから、気にしすぎるな、少々鷹揚であっても次第に自然と上達する、という励ましであり、ぎこちない反復を経ることこそ滑らかな言語使用への確かな道のりであるという洞察なのでしょう。とはいえ、あまり威勢よく開き直って、誤りが多いために解読に努力を要するような発話や記述をいつまでも改めないのも、慣れから来るくずれた、あるいはくだけすぎた言葉遣いに独りで平気になってしまうのも、感心しません。ごく初歩的な誤用をいつまでも繰り返したり、場に相応しい言葉への調整を怠って悪びれない言語使用者には、失敗を怖れるな、の金言に胡坐をかいているところがあるのかもしれません。気長であっても少しずつ、自分の意にしっくりと沿うような、相手にすっと伝わりやすいような言葉を獲得していきたいと思うものです。

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