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幡野広志さんのnoteを読んで考えた「安楽死」のこと

Twitterで幡野さんのことを知りました。
ガンが身近な病である私にとって、この記事はとても考えさせられるものがありました。

「安楽死」と聞いて、中学生のころに読んだ「わたしの天国でまた会いましょうね」という本を思い出しました。15歳のドイツの女の子の闘病記。
安楽死は医師など第三者が薬物などを使って患者の死期を積極的に早めること。積極的安楽死。
尊厳死は延命措置を断わって自然死を迎えること。消極的安楽死。
この本の主人公の女の子は「尊厳死」を選択しました。当時、中学生で初めて死を意識するきっかけになったような気がします。
私は積極的、消極的どちらにしても安楽死を選択できる社会であってほしい、と個人的には思います。
Twitterで幡野さんも議論されていました。
この問いに正解も間違いもないと私も思います。
ただ、選択する権利はあってもいいのじゃないかと。

私は3年前、父を骨髄異形成症候群という血液のガンで亡くしています。
治療法は骨髄移植以外になく、医師からはこのまま経過を見ながら進行を緩やかにする処置をしていくか、移植をするかの決断を迫られました。
父は自らの意思で移植を決め、完治を目指すことに。
当時、父は65歳で移植をするにも体力的に危険が伴うこと、骨髄移植をするにも、ドナーがいなければ移植できないことなど不安はたくさんありました。
家族全員血液検査を受けましたが、骨髄の型は一致せず、結局骨髄バンクでドナーを探すことになりました。奇跡的にすぐドナーが見つかり移植の日程が決定。
移植後、予後が悪くピリピリとした日々。
そんな中、医師から「呼吸が弱くなっているので呼吸を補助したほうがいい」というような主旨の話があり、同意書にサインを求められました。
すぐに決めてください、という雰囲気で母と二人、よくわからないままに同意書にサインをしたことを覚えています。
そして、翌日、父は人工呼吸器を付けました。
病室に入り、母と思わず顔を見合わせ驚いたことが忘れられません。
呼吸の補助=人工呼吸器だとは、思ってもいなかったんです。
それから、移植後2週間ほどで父は亡くなりました。
呼吸器をつけてからの2週間が家族にとってはつらい日々でした。
父の意識はなく、ただじっと死を待っているような時間。
医師に呼吸器を外してほしい、と母と何度が訴えました。
もちろん、医師からの答えは
「一度付けた呼吸器を外すことはできません。」

父は家族の姿を見ていたのか、2週間で逝ってしまいましたが、これが1ヶ月、半年、1年続いたとしたら。母も私も他の家族みんながどうなっていたでしょうか。
私が父の立場だったら、延命措置はいらない、と言うと思います。
きっと、父もそう言っただろうと思います。
今になって、移植前にきちんと父とそういう話をしておけばよかったと後悔しています。そして、医師から同意書へのサインを求められた時、もっと冷静に医師へ細かな説明を求めておけばよかった。
予期せぬことが起こったとき、人はなかなか思考を巡らせることができないものだな、と実感しました。
と同時に、ガンは色々な準備ができる病だということも感じています。

人は誰でも必ず「死」を迎えます。
それがいつ訪れるのか、誰にもわかりません。
明日、交通事故で死ぬかもしれない。1ヶ月後に病気が見つかって余命宣告されるかもしれない。
その可能性は子どもも大人も関係なく、誰にだってあると思っています。
だから、私はいつも今日という1日に結構、全力投球です。
明日、死んでも悔いのないように生きていたいな、と漠然と思って生きています。
二人の子どもにも私がいなくても生きられるたくましさを持ってほしいと、思いを込めて接しています。

自分が不治の病に臥せったとしたら。
自分が苦しいのは嫌だ。家族にその姿を見せるのも嫌だ。これからを生きていかなければならない家族の足かせになるのも嫌だ。
私は純粋にそう思います。
だから、「安楽死」という選択肢があるなら、救われる気持ちがします。
家族には苦しいときの姿を思い出されるより、笑っていた時の顔を思い出してほしい。
父の笑った顔は思い出しますが、それと同時にむくみでグローブのようになった手や無機質に目を閉じて横たわっている姿も鮮明に頭をよぎります。思い出したいわけじゃないのに。

人それぞれ、考え方も価値観も多様にあります。
いいとか悪いとか、誰が決められるものでもないと思います。
世の中の正しい、と思われていることだって、ただ、大勢の人がそれがいいと言っているから正しい、と思われているだけ。
大勢の人が認めること=正しい、とは違うと思っています。
世の中に正しいも間違いもなく、自分が何を選ぶのか、だけだと思います。
自分と異なる意見を批判するのではなく、受け止めることができる自分でありたい。
受け入れる必要はなくて、あなたはそうなんですね、と受け止められるやわらかさを持ちたい。

幡野さんのおかげで、自分自身の生き方とか在り方を改めて考える機会が得られました。
私は、今日も全力投球で過ごしますー。




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