魏志倭人伝から邪馬台国を読み解く その12 倭国大乱と卑弥呼の誕生
今回は、卑弥呼誕生の謎に迫ります。
□倭国大乱と卑弥呼の誕生
『魏志倭人伝』での非常に有名な卑弥呼の説明のくだりだ。ここで出てくる倭国は乱れというのが、日本で最初に起こった内乱と言われている「倭国大乱」だ。
『魏志倭人伝』では、単なる乱で「倭國亂 相攻伐歴年」とあり、前の時代の『後漢書』では、「倭國大亂 更相攻伐 歴年無主」で、大乱(大いに乱れ)になっており、記載表現は異なっている。四文字熟語で響きが良いからか、一般的に倭国大乱で通っている。
なぜ倭国大乱が起きたのかについては、おそらく、以下のような理由からだと思う。
①元々倭国に住んでいた人々(その前の時代の移民や元々の原住民などの混合)と、新たに朝鮮半島から移民してきた人々との定住場所の土地争いや信仰や宗教の違いによる争い
②移民して来た人々の元々の出身国や地域の違い、氏、一族の違いなどが関係する文化や信仰、考え方の違いによる衝突
③当初は、人口も少なく国々の間にゆとりの土地があった状態から、どんどんと人口が増加し密集してきて、空いた土地が開墾された事による隣の国々との土地や食料問題等の摩擦や衝突
④お互いの国々での産出物、土器や石器などの作成物に関する物々交換や市場での取り引きや、それぞれの国が担う役割分担等に関しての不公平、不満からの争い
⑤同じ交流のある倭国連合グループ国内での主導権争い、ポジション争い、考え方や方向性の違いによる摩擦
⑥自国の拡大のため、他国を自国に取り込もう、属国にしようとする他国への侵略、戦争
なお、私は、倭国大乱は倭国だけに限らず、この時代において、日本全体の各地域において、それぞれの勢力圏内や近隣諸国との間で同様の争いがあった時代だと捉えている。仮に日本の色々な地域で多数の戦死者の骨が見つかったからといって、それがそのまま当時の倭国の勢力範囲や、倭国大乱の規模の範囲や、ヤマト政権による全国統一などを示すものではないと思っている。(実際に、後の室町時代の終わりの戦国時代でも、大名や守護大名を中止に、地方豪族たちが日本全国で各国々での領土拡大の争い、権力の争いが多数あったが、初めは領土拡大の争いが各地域毎にバラバラに同時期に全国で行われていただけだった。そういう時代で、最初から全国統一を目指していた人物はおらず、唯一、織田信長が現れ、信長のみが、早い段階から天下統一のビジョン、戦略を持って行動していた。)
なぜならば、後に古墳時代になり全国各地にて大規模な古墳が作られているのは、各地の勢力が独立した力を持っていたからこそだと思っている。各地域でも食料や土地や市場や信仰などで、それぞれの理由で様々な争いがあったはずだ。
例えば、私達がよく知る日本の戦国時代でのお城をイメージすると分かりやすいと思う。古墳時代の墓も、戦国時代や江戸時代のお城(特に天守閣)も、国の勢力を示すシンボルのような物だ。戦国時代の始まりは、それぞれの国が独立した勢力であり、近隣国との争いのため各国で自由に多数の城が作られた。その後、全国が統一された後は、一国一城の制度が作られ各国は自由に城を作ることさえ出来なくなった。古墳時代に全国に多数の古墳が作られたのは、各国にそれぞれ独立した勢力があった証であり、古墳が作られなくなったのは、機内の勢力であるヤマト政権による全国統一が成し遂げられたからだ。ヤマト政権に統一された諸国側はもはや大規模な古墳は作れなくなり、ヤマト政権側はそもそも大規模な古墳を作る必要が無くなったという事だと思う。
卑弥呼には男弟がいて、卑弥呼を助けて国を治めている。この弟が邪馬台国自体の王だったという解釈、邪馬台国の将軍や大臣のような存在という解釈、あくまでも姉の卑弥呼を補佐する立場の存在などの解釈があると思う。私は、『魏志倭人伝』内でその後の存在感や活躍が記載されてないため、おそらく卑弥呼の補佐役であり、邪馬台国内での国の運営に携わる内政担当大臣のような存在だったと思っている。
いずれにせよ、実際の国の運営は男弟、祭祀は卑弥呼のように、日本古来に見受けられるヒメヒコ制(男と女)やエオト制(兄弟や姉妹)での統治だと思う。
ここで、私の思う日本(倭国)の古来の王についてのイメージを記載しておく。中国からみたら王という単語での表現になると思うが、日本では、王というよりは、国の代表となる象徴的な存在、一番敬うべき高貴な存在、祭事や占いなどの祭りを司る立場のような存在で、実際の国の軍事や外交や農業生産や治水やなどの政治に関しては、それぞれを担うような一族を代表する立場の人がいるなどしていたと思っている。
基本的に何事も話し合いで決めていたと思うし、意見がまとまらない場合には、重要なことほど神様に神託してや、占いを行い答えを教えて貰って決定していたと思う。このため、中国の言葉で表現するならば、王となってしまうが、日本の王は決して言葉通りの意味での王では無かったと思う。また、その王自体も、1つの家柄から出るわけではなく、王になれる位の一族が一定数あり、王族(貴族)階級としての血縁関係もあり、それらの貴族、親族の中から、王が選ばれていたのではないかと思う。
なぜそう思うかというと、王が交代されたり、共立されたり、選ばれている様がみてとれるからだ。王が家柄の血統のみや、力(軍事力、経済力等)でのみなれるわけではなく、また王になっても交代させられる力、つまり選ぶ側の力のある存在がいるのだと思う。元々のこのようなシステムが引き継がれたり、参考にして作られたりして、その後の国や時代によって発展や変化を遂げ、やがて後の尊、大君、天皇と貴族の制度に発展していってるような気がする。
話を戻すと、さすがに、1,000人も侍女がいる、入れる舘も当時は無いと思うので、ここはオーバーに表現されたと思う。あるいは卑弥呼の熱心な信者や学んでいる巫女がそのくらいいたのか。魏志倭人伝では、卑弥呼が死んだときには、奴婢が100人が共に埋葬されたとあるので、実際に侍女も100人くらいはいたかもと思う。ただし、この1000人の侍女も100人の奴隷もきりの良い大きな数字をあえて使っている誇張表現だとは思う。実際には、そんなにいないと思っている。(そんなすごい侍女を従える存在の倭国の王が、我が中国(魏)の臣下として、わざわざ遠くから朝貢に来ていることにしたいため。)
王を共立しているのも、当時を推し測る上で、非常に大きなポイントだと思う。王を共立するということは、逆を言うと飛び抜けた国の存在がいない、お互いを近い間柄、仲間やグループだと思っている、話し合いによる合意形成や決定を重んじている事を示していると思う。そして当時の交通や通信手段を考えると、近い距離の範囲内にいて、接した国々になると思う。そもそも、お互いに他人種の国や完全な敵国だと認識していれば、戦で決まるはずで、話し合いで王は決めないし、一国が最大最強の存在があれば、他国を従えて、その国が王になれるはずだ。お互いの国々の距離がかなり離れているなら、外部の中国や朝鮮半島から攻めてくるくらいの余程の外圧がない限りは、話し合いでわざわざ共立して王を立てるという状況にはならず、お互いにそれぞれの国で対立や交流などを行いながら自国の王を維持するだけだと思う。
ここで何より一番の謎は、やはり卑弥呼が王に選ばれた理由と、それにより長きに渡る戦乱がピタリと治まった理由だ。どちらも簡単にはおき得ない。まずはここを考察したい。
□卑弥呼が王になり戦乱が治まった理由
以下に考えつく限りの理由の案を並べてみた。
①長引いた戦乱で各国がかなり疲弊していて、いい加減にうんざりしていた。各国ももう戦乱を続けるような国力が無かった。平和が望まれる状況だった。→時代背景
②卑弥呼が当時の一番の巫女だった。卑弥呼の鬼道、呪い、占いがかなり有名で、人々に恐れられていた。→巫女の神通力
③各国代表が集まり、話し合いの結果で、次の王が卑弥呼に決まった。あるいは、次の王を決める国が邪馬台国に決まった。→「和をもって尊しとなす」。日本人ならではの解釈手法(通常、近代以前の世界史においては、軍事力がものをいう戦争を話し合いで解決する事はまずあり得ない)。後の江戸徳川時代の終焉となる「大政奉還」もこの手の解決策の一種だと思う。
④卑弥呼が王になるときに、当時一番の巫女にどうすれば争いがなくなるか占って貰った結果、巫女だった卑弥呼を王にすれば治まるという神託が出た。→神頼み、神の決定。日本では、後の奈良時代の「宇佐八幡宮神託事件」(称徳天皇が道鏡に天皇位を譲ろうとして神託した話)が有名。
⑤国力、軍事力に差が出てきたため、各国が従わざるを得なかった。邪馬台国の軍力が一番だった。卑弥呼の弟などが、邪馬台国で、大軍を率いる立場がいた。→軍事力
⑥当時、新しい宗教、道教、信仰が中国から入って来てか、倭国で変化して生まれていて、一般庶民にまで、大流行していた。卑弥呼がその新しい宗教の教祖的、第一人者的な立場だった。新しい信仰、新興宗教にすがった。→宗教、信仰の力。実際に当時、漢の末期の時代180年頃に中国では、「太平道」という道教の一種の新興宗教が生まれ、この教祖や信者達が「黄布の乱」と呼ばれる反乱を起こした事がきっかけになり、漢が滅び、三国志の時代になった。
⑦狗奴国が力を付けて来て、倭国外との戦いが激化してきた。倭国内で覇権を争っている場合では無くなった。一致団結して他国との争いに備えた。→外圧、外敵の外部起因
⑧日食、月食、大地震、大台風など天変地異や凶事が発生して、人々が不安になった。神の怒りを静めるために巫女の力が必要だった。→天変地異、神の力(中国の易姓革命のような状況)
実は上記の奇数番号が現代人目線で考えた理由で、偶数番号は古代人目線で考えた理由だ(皆様は、どちらがより違和感なく納得出来るでしょうか)。
どれが正解かは分からないが、私は上記の中に必ず正解が含まれていると考える。また、その理由は1つだけではなく、上記内のいくつかの複合した結果によるものだと思っている。
仮に全ての要素が少なからずあったと仮定してみて考えてみると、以下のような解釈になる。あくまでも例えばの話だか、当時、本当にこのような物語があったのかもしれない。
上記のような複合条件の合体版での理由付けの説明を直接見聞きしたことはありませんが、このくらい、話し合いによる解決を求める日本人らしい、そして古代人ならではの理由があったように感じています。
□神功皇后と卑弥呼
『日本書紀』には、「卑弥呼(ひみこ、ひめこ)」は直接登場しませんが、実は「神功皇后」の記載において、『魏志倭人伝』の記載内容がそのまま何度か引用されて記載されています。直接的に「神功皇后は卑弥呼だ」とは書かれていませんが、あたかも、神功皇后が卑弥呼を連想するかのように匂わせている感じです。このため、過去には神功皇后は卑弥呼と考えられていたり、いまでもそう捉えている人達もいます。
ここで重要なのは、7、8世紀の当時の『日本書紀』を編纂した人々は、中国の魏志倭人伝などの歴史書を読んで正確に知っていたという事です。このため、『日本書紀』の内容は、中国側に記録されている内容を知りつつ、自分たちに都合が良く、辻褄が合うように編纂されているのだろうと思っています。
もう1つは、神功皇后が卑弥呼だと思わせたかったという事だと思います。神功皇后が卑弥呼ならば、ストレートにそう書けばいいだけなのですが、そうは書かずにやたらと、『魏志倭人伝』の原文を引用して、あたかも、神功皇后が卑弥呼だと考えて貰うように思わせています。逆にいうと、つまりは、実際は神功皇后は卑弥呼では無かったということだと考えています。実際に巫女であり結婚しておらず夫も子供もいない卑弥呼と、その反対である神功皇后を重ねるのは、かなり無理があります。仮に神功皇后が卑弥呼だったとした場合には、その次の台与(壱与)に相当する存在も見当たりません。
神功皇后は、第14代仲哀天皇の后で、第15代応神天皇の母親です。応神天皇の5世孫が第26代継体天皇となり、その後の第33代推古天皇や、そして、第38代天智天皇、第40代天武天皇と流れていきます。7、8世紀に『日本書紀』を書いていた天武天皇の政権にとっては、倭国女王として君臨した卑弥呼の神秘性や威光がほしいほど、それだけ神功皇后は重要な人物や位置づけだったということだと思います。
⬛次回は、壱与の誕生と卑弥呼の暗殺説について
最後までお読み頂きありがとうございました。😊
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