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小堀遠州のマルチな才能!日本のダヴィンチの生涯

今日(2/6)は小堀遠州の命日。正保4(1647)年、69歳。

<新たな美の構築者 小堀遠州>
 近江国に生まれ、幼少の頃より父正次の英才教育を受けた。父は浅井長政に仕えていたが、浅井家滅亡後は、豊臣秀長に仕え、家老として郡山城に移っている。
 秀長は千利休に師事していたため、小堀遠州は幸運にも10歳にして利休の手前を見る機会を得た。さらに利休亡き後、天下の茶人となった古田織部
に師事
して、千利休、古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となった。


 慶長13(1608)年には、駿府城作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これより「遠州」と呼ばれるようになり、その後は、河内国奉行や近江国奉行を勤め、元和9(1624)年に伏見奉行となって、残りの生涯を伏見で過ごした。

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 伏見奉行所の庭園は遠州が手掛け、これを見た徳川家光が即座に5000石を加増したとう逸話も残る。この時の庭園の一部は、御香宮神社の社務所裏の庭園として引き継がれている。
 また幕府の嫌う公家への出入りを極力避けていたのは、師であった古田織部のような非業の死を避けるためとも言われている。


 生涯に400回あまりの茶会を開き、招かれた人々は大名・公家・旗本・町人などあらゆる階層に、延べ人数は2000人に及んだとされる。また書画和歌にもすぐれ、王朝文化の理念と茶道を結びつけ、「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げた。さらに陶芸においても指導力を発揮し、遠州七窯が誕生。京都では朝日焼(宇治)がその伝統を継承している。


 このように多ジャンルにわたって才能を発揮した遠州は、後水尾天皇をはじめとする寛永文化サロンの中心人物となり、また作事奉行として桂離宮、仙洞御所、二条城、名古屋城などの建築・造園にも中心的役割を果たした。
 その中でも南禅寺金地院が代表的な庭園であり、他にも京都では二条城、仙洞御所、桂離宮、青蓮院・霧島の庭(下の写真)、高台寺、圓徳院、正伝寺、大徳寺孤蓬庵(再興)、清凉寺など、多くの庭園を手掛けたと伝わる。

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<小堀遠州の庭園 概要>
 小堀遠州の作風は、師である古田織部の作風を受け継ぎ、発展させたとされているが、その著しい特徴は庭園に直線を導入したことにある。屏風画に残る御所で実施した築地の庭(後には後水尾天皇によって改修される)や桂離宮の輿寄の「真の飛石」が小堀好みと伝えられた特徴だ。
 また様々な形の切石を組み合わせた大きな畳石と正方形の切石を配置した空間構成は以前には見られないもので、直線に使った長い畳石は桂離宮内の随所に見られるが、特に松琴亭前の反りのない石橋は圧巻の一言と言える(下の写真)。※だたし桂離宮は「遠州好み」ではあるが、実際に遠州が作庭したのかと言われると、現在は否定的意見が多い。

 また樹木と大胆な刈り込みや花壇を多く用い、芝生の庭園を作るなどの工夫は西洋の影響が指摘されている。

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