山村純也

京都生まれ。大学在学中にプロの観光ガイドとして京都・奈良を案内。旅行会社勤務の後、「㈱…

山村純也

京都生まれ。大学在学中にプロの観光ガイドとして京都・奈良を案内。旅行会社勤務の後、「㈱らくたび」を創立し、「らくたび文庫」を創刊。現在、京都商工会議所の京都検定講師も務める。著書に『幕末 京都の龍馬案内』、『京都・国宝の美』、『見る 歩く 学ぶ 京都御所』など。京都検定1級取得

最近の記事

命日に亡き人を偲ぶ!後水尾天皇

 今日(8/19)は後水尾天皇の命日。延宝8(1680)年、85歳。 江戸前期に江戸幕府と渡り合った気骨のある天皇で、文化的才能も持ち合わせており、多くの子を産んで長寿を全うした。 仙洞御所、円通寺(幡枝御所)、修学院離宮、閑臥庵、霊鑑寺など、ゆかりの地も多数。二条城にも行幸した。 <以下補足>  後陽成天皇の第3皇子であり、その時代は徳川家の支配する江戸時代に入ったばかりでした。時代を安定させるべく天皇のもとには2代将軍徳川秀忠の娘である和子が入内することとなり、公武

    • Voicyの放送を紙面化してみました

      Voicyで毎朝届けている「京の歴史NAVI」を紙面に再現してみた。 (基本Wordで読み込ませて微調整かけてます) https://voicy.jp/channel/1134 ~ 2022年12月22日放送分 ~ 「今年最後の散策講座は終い弘法へ!東寺と西寺跡を巡る」  それでは京の歴史NAVI始めてますけれども、今日は12月22日木曜日と言うことになりました。皆さんいかがお過ごしでしょうか? さあ昨日は昼から散策ツアーに行ってまいりました。大阪シティアカデミーという吹

      • 本日、命日を迎えた早良親王と御霊信仰

        今日は早良親王の命日。延暦4(785)年、享年35。 桓武天皇の実弟として政治にも参画したが、長岡京遷都直後に謀反の疑いをかけられて乙訓寺に幽閉。食を断って抗議したが、島流しへ。途中で餓死したという。 その後、桓武天皇の身内が次々なくなり天変地異が頻発したので、平安京遷都が決定した。 祭神となった神社は多く、御霊信仰のご祭神として中心的存在となった。 以上が、今夜ツイートした内容。まだまだ内容が足りないので、こちらに記載しておく。 ◆桓武天皇登場までの背景◆  壬申

        • 鎌倉殿の13人で注目!「源頼家」の命日にちなんで

          今日はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で話題の源頼家の命日。元久元(1204)年、享年23。ドラマでは金子大地さんの迫真の演技で、今までなんとなく姿が浮かび上がりにくかった頼家の実像が見えてきた。 18歳で偉大な父頼朝から将軍職を継ぐが、たった3カ月で13人の合議制へ。これは独裁政治を行った頼家の横暴を押さえようとしたにしては、早すぎる処置。おそらく将軍の負担軽減、将軍の役割をサポートする意味合いが強かったのだろう。 もうひとつは比企一族の問題。頼家の嫡子である一幡は、

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          祇園祭こぼれ話 ~知らざる幻の山~

           会社の近くの公園は、御射山(みさやま)公園といい、信州の御射山神社(諏訪大社の末社)に由来するらしい。場所は東洞院蛸薬師の北東角。ウイングス京都の南側の大きな公園。休日ともなれば家族連れでにぎわう。いたって普通の公園。  ここはかつて諏訪氏が住んでいたエリアということがわかっており、諏訪社も祀られており、足利尊氏も信仰していたという話もある。そんな地域の繋がりがあったためか、祇園祭では中世の頃から「御射山」という山を出していたというから驚き。 応仁の乱以前から現在に至る

          祇園祭こぼれ話 ~知らざる幻の山~

          京都の御所周辺の散策の魅力

           ここ数日御所周辺の案内が続いている。ここ数日というのはつまり3月の終盤。この時期に御所と言えば近衛邸跡の桜が気になる。  何コースか組んでみたが、今現時点でもっとも自分の個性を発揮できるコースが先日29日に巡ったコースだ。それは以下の通り。  京阪電車出町柳駅→妙音弁財天→本満寺(しだれ桜)→阿弥陀寺(織田信長・信忠の墓)→大黒屋鎌餅本舗→薩摩藩墓地→相国寺→京都御苑→近衛邸跡(しだれ桜)→一条邸跡→中立売休憩所→蛤御門→清水谷家の椋の木→桃林→西園寺家跡→白雲神社→出水

          京都の御所周辺の散策の魅力

          日本初!京都の小学校の魅力

          ここ数日、Voicyで話したり、講座をしたり、Twitterに連投している京都の小学校の魅力をダイジェストで紹介。  京都の小学校といえば日本で最初にスタートしたことはどれくらい知られているだろうか。しかも明治2年に64の小学校が一斉にスタートしたのだ。驚くべきことに、全国に学制が発布されて小学校ができる3年も前の話だ。  なぜこんなすごいことが実現できたのか。それは京都には少なくとも室町時代から続く町組という土台があったから。この町組というのは自治組織であり、自衛権も持

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          小堀遠州のマルチな才能!日本のダヴィンチの生涯

          今日(2/6)は小堀遠州の命日。正保4(1647)年、69歳。 <新たな美の構築者 小堀遠州>  近江国に生まれ、幼少の頃より父正次の英才教育を受けた。父は浅井長政に仕えていたが、浅井家滅亡後は、豊臣秀長に仕え、家老として郡山城に移っている。  秀長は千利休に師事していたため、小堀遠州は幸運にも10歳にして利休の手前を見る機会を得た。さらに利休亡き後、天下の茶人となった古田織部 に師事して、千利休、古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となった。  

          小堀遠州のマルチな才能!日本のダヴィンチの生涯

          勝海舟の生き方から学ぶべきこと

          今日は幕臣・勝海舟の命日。明治32(1899)年、享年77。 その信念は、「窮地の日本をどのように救い、発展させるか。」の1点に集約されていた。 ◎最も重要な 「 海軍 」 に目をつけた  勝海舟は幕臣であるが、決して身分が高いわけではなく、その存在を高めていくことにまずは努力を行ったわけであるが、その結果熱心に取り組んだのが蘭学であった。これがきっかけで長崎伝習所(勝は第一期生、第二期生に榎本武揚がいる)への道が開け、さらに咸臨丸でアメリカに渡るというチャンスを掴んだの

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          幕末の偉人を多数輩出!佐久間象山

          文化8(1811)年~元治元(1864)年  松代藩の下級武士の出身とされるが、そのルーツは諸説あり。村上義清に仕えた佐久間大学、あるいは柴田勝家の甥で賤ヶ岳の戦いで活躍した佐久間盛政、上杉謙信に仕えた斎藤朝信など。象山は幼少からその才を発揮し、数学、儒学を学んで頭角を現した。特に最初に開いた私塾では儒学を教えている。  後に老中に就任した藩主の命によって西洋兵学を学び、自らも大砲の鋳造に成功し、その名をより高めた。当初から成功したわけでなく、暴発させるなど、失敗も重ねたが

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          近衛文麿の命日に京都ゆかりの地を紹介

          ◆ 近衛文麿の人生 ◆ ~ 総理大臣を3度も歴任 ~  近衛篤麿(あつまろ)の長男で、明治37(1904)年に父の死によって12歳で近衛家の第30代目の当主となる。育ちの良さ、京都帝国大学に進んだ学歴、180センチを越える高身長なども合わさって、将来を嘱望され、貴族院議長などを経て、同じく公家出身の政治家・西園寺公望の援助もあり、昭和12(1937)年に第1次近衛内閣を組閣した。  当初は日中戦争に不拡大方針で臨んでいたが、盧溝橋事件をきっかけに石原莞爾(いしわらかんじ)など

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          12月14日にお勧めしたい京都散策

           毎年12月14日は京都では山科において「義士まつり」が開催され、大いに盛り上がる。これは大石蔵内助を中心とした赤穂浪士が主君、浅野内匠頭長矩の仇討ちに成功した日に合わせてこの日が選ばれている。開始は10時に毘沙門堂前から始まり、15時に大石神社境内で終了という比較的長い行事となる。  この日のお勧めの散策コースは、地下鉄東西線の椥辻駅をお昼13時前後にスタートし、大石神社へ向かうコース。新十条通を西へ向かうのが基本だが、途中、南側に位置する中臣遺跡や坂上田村麻呂の墓には寄

          12月14日にお勧めしたい京都散策

          京都にある「応挙寺」に参拝して

           昨日(12/13)訪れた太秦の悟真寺は、「応挙寺」と呼ばれている浄土宗の寺院で、円山応挙の墓があることで知られている。場所は広隆寺と大酒神社の間に位置し、境内には自然幼稚園があり、それが目印になる。お墓は敷地に入って突き当りにあるのでわかりやすい。以上、本日tweetをしたので、応挙について書いておく。  丹波国穴太(あのう)村(現、京都府亀岡市)の農家で生まれ、貧困から8歳ごろに近くの金剛寺へ小僧に出され、15歳の頃京都へ出て狩野派門閥であった石田幽汀(1721~178

          京都にある「応挙寺」に参拝して

          畠山義就の命日(12/12)に応仁の乱の実態を解説

          今日は畠山義就の命日。延徳2(1491)年、享年54。 畠山家の跡継ぎ争いでいとこの畠山政長と争い、政長を支持した細川勝元と対立し、山名宗全の支援をうけて応仁の乱を起こし、その後、西軍の主力として最後まで戦い抜いた。 上御霊神社は、義就と政長の戦端が開かれた場所であり、応仁の乱勃発の碑が残る。  よく応仁の乱は東軍の細川勝元VS西軍の山名宗全の戦いといわれるが、戦いのきっかけは畠山家の相続争いである。そしてこの畠山義就は、山名宗全らを味方につけて当初有利であったにも関わ

          畠山義就の命日(12/12)に応仁の乱の実態を解説

          沢庵宗彭の命日(12/11)に大徳寺へ

           今日は沢庵宗彭の命日。正保2(1646)年、享年74で亡くなっている。たまたま臨済宗のバスツアーで大徳寺を訪問したが、全く沢庵についての話ができなかったので、ここに記しておく。  但馬国の下級武士の家に生まれた沢庵は、7歳の時信長の命で羽柴秀吉が但馬に攻め入り、父・綱典が仕えていた山名家は滅ぼされた。そこで沢庵は、父の勧めもあり、戦国の世をいかに生き抜くべきか、その答えを求めて、仏道に入る事になる。  そして出会ったのが、当時、仏教の中でも隆盛を極めていた禅の世界だった。

          沢庵宗彭の命日(12/11)に大徳寺へ

          松永久秀の歴史的役割について

           本日、松永久秀の講座を終えて。  久秀って、結果的に織田信長の上洛及び、天下人へ一気に駆け上がるお膳立てをしたんじゃないかと思えてきた。まずは以下に久秀の人生について。  久秀の出生は謎に包まれており、出身地の候補として、山城、摂津、加賀、筑前、阿波、豊後、近江などがあり、一説には現在の長岡京市を中心とする桂川の西側一帯である山城西岡説もある。天文9(1540)年頃には、三好長慶に右筆として仕えたといわれいる。その後、天文11(1542)年には弾正と称して、三好の一軍を

          松永久秀の歴史的役割について