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難攻不落!日本最強の城はどこか?

日本人にとってお城というのは大変なじみのあるもので、現在分かっているだけでも50000もの城跡があると言われている。

日本で最初に世界遺産となった姫路城を始め、その姫路城も入れた国宝五城には、松本城、犬山城、彦根城、2015年には新しく松江城が選ばれており、これらを含めて「現存12天守」と呼ばれている城などは、当然今や観光名所となっており、それ以外でも残っている(あるいは復興した)城は、街のシンボルとして愛され続けている。

さて、今回Voicyでも2回に分けて話しをしたが、最強の城というくくりは、とても難しい。どの面から最強を論じるかで、エントリーが変わるからだ。ただ、単純に難攻不落という意味では、小田原城大坂城が二大巨頭ではないだろうか。大きさで言えば江戸城が最大かもしれないが、歴史上「攻められていない城」は、ここで論じることは避けたい。

その点で、小田原城はかつては上杉謙信10万で、豊臣秀吉20万で攻め寄せたが、落城させることはできなかった。秀吉の場合は、籠城した北条氏側は5万もの兵を擁しており、さらに9キロに渡る惣構えを構築していたことから、秀吉軍は城内に近づくことも難しかった。しかし秀吉は包囲をしながら、小田原城以外の城を次々落城させて北条氏を追い詰め、最終的には「降伏開城」という形で戦いを終えることとなった。

大坂城も城攻めの名手である秀吉が威信をかけて築いた壮大な城で、「大坂の陣」で徳川家康が20万の軍勢で囲んだが、こちらも当時10万の城兵がいたため落城は難しく、家康は最初から和睦を模索していたという。「真田丸」の活躍はあったものの結局、狙い通り和睦にもちこみ、堀を完全に埋めることによって、なとか落城に持っていったのだ。結果論だが、和睦をしたのは豊臣側の致命的なミスだったと言えよう。

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話の本題はここからで、今回はこれに加えて、最強の城として伏見城を挙げたおきたい。なぜ伏見城なのか。それは秀吉が最晩年に造ったもので、木幡山の地形を巧みに使うだけでなく、宇治川を城下まで引き込み、短期間で城下町を整備していったからだ。通常城は、自然の地形を「利用」するわけだが、土木普請が得意な秀吉は、そもそも地形を「造成」しまったのだ。

さらにこの城の強さは歴史が証明している。「関ヶ原の戦い」の前哨戦となった「伏見城の戦い」では、4万の西軍が取り囲んで必死で攻め立てたが、守備兵が1800人程だったにも関わらず、落城する気配は全くなかった。

小田原城や大坂城の攻城戦は、その城自体を落とせば戦いは終わりなので、じっくりいってもよかったが、伏見城の場合は一刻も早く落城させて、東へ進軍せねばならなかった。そのため攻撃は昼夜を徹して行われたが、鳥居元忠を中心とした守備兵の結束は高く、10日以上も西軍は攻めあぐんだ。最後の手段として、城内にいた甲賀衆を揺さぶって寝返らせ、城内から火をつけてようやく、突入することができ、落城させたのである。

鳥居元忠ら360余名は、全て自刃して最期を遂げ、その血が床に染み渡り、戦後、徳川家康はこのことに感謝して、その床を京都を中心とした各寺院に移築し、それらは「血天井」として現在に伝わっている。

また徳川家康によって、同じ場所に築城された徳川伏見城は、「一国一城の制」で廃城となり、多くの場所へ解体移築されたのだ。徳川伏見城は、豊臣伏見城を凌駕するように、念入りに仕上げていたはずで、廃城となって生れたその木材はどこに持ちこんでも、歓迎されたであろう。だからこそ現在も数多くの場所で遺構を見ることができる。現地ガイドとしては、これほどありがたいことはない。下記写真は、現在の伏見桃山城(昭和39年の建造で、場所はかつての伏見城天守の位置からは北にずれている)。

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<伏見城の遺構一覧> 
◎城門
御香宮神社 表門(大手門を移築)、栄春寺(伏見区)総門と総構え
豊国神社、西本願寺 唐門、二尊院(右京区)総門、観音寺山門 
瑞宝寺旧山門(兵庫県神戸市)、浄照寺(奈良県磯城郡田原本町)表門(伏見城高麗門を移築)、本山寺(大阪府高槻市)中の門
◎櫓
福山城(広島県福山市)伏見櫓(重文・解体修理時に発見された墨書きにより伏見城よりの移築が確定)、膳所城、岸和田城
◎殿舎
金地院方丈(重文)、養源院本堂、大通寺(滋賀県長浜市)本堂
日暮御殿 - 都久夫須麻神社(滋賀県長浜市・竹生島)本殿(国宝) 
◎石垣
 御香宮神社、藤森神社、京都市立桃山東小学校、淀城、桃山御陵参道
◎その他
茶室  高台寺 時雨亭、傘亭(重文)、血天井 養源院、正伝寺、宝泉院等

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