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(読書シリーズ)苦しみの背景を想像する事。そして何ができるのかを考えてみる。

2019年11月、京都で起きたALS嘱託殺人事件、覚えていますでしょうか。

「死にたい」と望むALSを患う女性がネットで知り合った医師に殺害を依頼し、お亡くなりになったという事件です。事件に関わった医師2人の内の一人、山本被告(元医師)は、昨年12月に判決が言い渡されました。(もう一人の大久保被告は1月に裁判が開始されます。)

この事件は、私達の障害福祉圏域内で起こった事件であり、身近な立場として私自身とても衝撃を受けた出来事でした。

あれから4年が経ちました。その当時、死にたいと望む者への法整備、つまり「安楽死」について法整備の検討をすべきではないかと、様々な立場の方がメディアを通じてコメントを出された事を覚えています。その時の私は、死を望む人の権利は認められるべきなのか、という自問が湧き上がり、書籍などを探し読んで、答えを求めた経過があります。

今でも答えを求めているそんな中、つい最近、高木俊介さん(ACT-K)のX(旧ツイッター)から、一冊の本が紹介されました。

 

「安楽死が合法の国で起こっていること」

(著者:児玉真美 ちくま新書)

 

すぐに購入し読んでみました。外国の安楽死が進む中、人の存在価値や支援を必要とする方のケアの在り方を深く考えるきっかけにもなりましたので、内容を少しご紹介します。この本の内容は大きく三部で構成されています。(下記、斜体の文字は本書文章となります。)

 

序章では「安楽死とは何か?」と本書の中で用いる定義が説明されています。国際的に定義はなく、専門家の間でも定義が微妙に異なっているようです。

『日本で言うところの「尊厳死」とは、一般的には終末期の人にそれをやらなければ死に至る事が予想される治療や措置を、そうと知った上で差し控える』事を指し、『それに対して「安楽死」とは医師が薬物を注射して患者を死なせる事を言う』。つまり前者を「消去的安楽死」、後者を「積極的安楽死」と呼ぶれているものになります。

もう一つ、日本ではほとんど区別される事なく安楽死とされているのが「医師幇助自殺」。これは医師が自殺目的で処方した薬を患者自身が飲む事、また近年では薬物をいれたストッパー付きの点滴を患者自ら外し自殺を行う事を意味されています。合法化が進む国の中では、医師幇助自殺は合法だが、積極的安楽死は違法という所もあり、国や州によって違いがある事の説明がなされています。

 

「第一部」では、合法化されている国の実情が紹介されていますが、どこの国も『いったん合法化されれば対象者が歯止めなく広がっていく』と言い、『終末期の人から、認知症患者、精神/発達/知的障害者や精神的な苦痛のみを理由にした安楽死と拡大してきたのも、共通して見られる傾向だ』と指摘しています。

特にオランダやベルギーの安楽死先進国では、『両国とも法的要件である「耐えがたい苦痛」が身体的な苦痛に限定されていないため、衝撃的な事例がいくつも話題になってきた』といくつかのケースが紹介されています。つまり、障害を負う事や、他者との関わりで生まれる苦痛から、精神的苦痛だという訴えで、安楽死が安直に実施される現状が明らかにされています。

 

「第二部」では『「無益な治療」論』について。

 『簡単に言えば、「もうどうしたって助けてあげられない患者を甲斐のない治療で無駄に苦しめるのはやめにしよう」』という、患者本人にとって「無益」としていた議論が、『医療を取り巻く経済状況から』『医療サイドの判断で一方的に治療を差し控えたり中止したりする事を認める論拠として』出てきています。

 安易に言うと、生きるために医療的コストがかかる患者を「無益」とし、積極的安楽死が認められるよう


になってきている、という事です。2018年、米国で順植物状態であった1歳9ヶ月の子に対し、生命維持は無益とし、生命維持装置を外し、緩和のみに切り替える事を判事が認めたという事例が紹介されています。

 そして、『「無益な治療」論』が、臓器移植として繋がりをみせているという事。

『ベルギー、オランダ、カナダ、スペインでは安楽死後臓器提供という形で安楽死と臓器移植はすでに直結しているが、「無益な治療」論も臓器移植と繋がっている。』とし、『現在、臓器移植先進国の病院では臓器ドナー・プール増大策のひとつとして、ICUにいる重篤な患者の中から潜在的臓器ドナーをあらかじめ特定しておくということが行われている。例えば脳に大きな損傷を負った患者、ALSなどの難病患者など、積極的治療や生命維持を「無益」として中止される事が予測されるひとたちだ。』としています。

ここの部分を読み進める中で感じた事は「怖い」という事でした。無益という事を医師の専門性の中で判定する事ができるという流れになってきているようです。また医師の専門性として、法的に認めれている方向性にあるという事が指摘されています。

 

第三部は『苦しみ揺らぐ人と家族に医療が寄り添う事』

著者は、重い障害のある娘を持つ親の立場でもあり、子どもを通し、医療職との深い溝について論述しています。

『医療の世界にはどうして無神経な人が多いのだろう……。』、しかし『大半の医療職とは良好な関係を築いてくることができたし助けてもら』ってはいるが、『医療職と患者や家族との間には、深くて大きな溝がある。』その深い溝について『「医療」と「生活」の関係性の違いがあ』り、『私たちにとっては「生活」の方が「医療」よりもはるかに大きい。けれど医療職ではその大きさが逆転している感じがする。』と著者は言います。先述した医師が安楽死を判定する流れの中、「生活」や「関係性」という日常の価値観が経済的・医療的な背景から蔑ろにされる危険性に警笛を鳴らしています。

また『目の前の患者の医療をどうするかという問題は、医師にとっては「今という時点」において「医学的な正解は何か」という問題なのだな、といつも思う。一方の患者や家族にとっては、固有の人生にあった様々な出来事の連なりという時間軸(線)における「人生」の問題』であるとして、『例えば重症児者が重度化するにつれて親が迫られる決断の一つ』である経管栄養の例を出し、子の楽しみを奪われる事は親にとって認め難い事。しかしその選択をせざる負えない状況があり、耐え難い苦しみにある事を言われています。しかし医療職は、『このように立ちすくんでしまう時、医療職には「せっかく医学的に正しい選択肢を提示してやっているのに親がそれを理不尽に抵抗する」姿と映るようだ』と、医療としての判定の正しさという眼差しを向けられ、その構図の中での正しさを問う事に終始している状況がある。その事について著者は以下のように解を求めています。

『まずは否定も批判もせずに耳を傾け、理解しようとする「共感」の姿勢だろう。意思決定を共有しようとする時、医療職は「正解」をゴールにその場に臨むけれど、親や家族に必要なゴールはおそらく「正しさ」ではなく「心で納得できること」。それはその人本人が自分達親子のこれまでの人生を振り返る中で考え、自分でたどりつくしかないゴールなのである。』

 

安楽死先進国では医療職による「無益な治療論」からの安楽死が進んでいます。この本の中では、日本病院会 倫理委員会から出さている文書の中に、尊厳死の対象として、神経難病、重症心身障害者が「今回は議論されなかった項目」として出されています。つまり、今後議論の対象となっていく事が推測され、私達が知らない所で「尊厳死」として進んでいくのではないかと、この本を読み、改めて危惧を抱いた所です。

『患者が決める話しでもなければ、尊厳死や患者の死ぬ権利の文脈の話しでもない。ここで提言されている「尊厳死」は医師が患者を選別して死を与えること。』

 

最近「らくなん」のケースでは、18歳から20代、30代と若年層の相談が多く入ってきています。皆、虐待等の逆境体験があり、過去の辛さを引きずり「死にたい」と訴えています。

そんな訴えを前に、僕らはご本人達の話しを聞き、共にその場にいる事、共に感じる事、苦しみの背景を想像し、何ができるのか…、そのような事を繰り返しています。

先日では、「今大阪の●●の屋上にいる。飛び降りるね」という連絡が夜間帯に訪問看護ステーションに入り、GPSを頼りに、訪問看護さんが大阪まで探しに行ってくれたという事がありました。「死にたい」という訴えを前に、やはり僕らは、生を支えるためにできる事は何かを考え、行動していく必要があります。

この本の分量は300ページ弱と厚めの本ですが、安楽死について多くの示唆を得られる本だと感じています。ぜひとも手にとって読んでいただけるとより深い視点が得られるのではないかと思っています。

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