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3notes3 〜隙間ないオトコ 余白すぎるオトコ ムダなく使い切る私


ここに三つのノートがある
隙間ないオトコが好んだパンダ、の写真を表紙にした学習ノート
余白すぎるオトコがつながりを持とうと長崎から送ったMacBook Air
そしてムダなく使い切る私が愛用しているiPhone内アプリnote





この物語に協力してくれた

ふたりの紳士に感謝を込めて……




人物紹介


祥子…主人公、ムダなく使い切る私、そのもの。物も人も簡単には切り捨てない。けっこう人情味のあるしみったれ。大阪在住。中学生のムスメ コウとふたりで暮らすシングルマザー


涼……祥子とは一度だけ面識がある、隙間ないオトコ。I Tで、働きたくても働けない人に対し仕事を作る会社を運営。隙間産業経営者。名古屋在住。メンタルの弱い母とふたりで暮らしている。クラブハウスで祥子とつながる。


大吾…祥子の彼、余白すぎるオトコ。リモートワークを主に転居を重ねる。昔は文章に関わる仕事に携わり今も執筆している。長崎在住。ポメラニアンのペンちゃんと暮らしている。クラブハウスで祥子と出会う。


コウ…祥子のムスメ、立ち居振る舞いはドライだが、闇が深いオンナ。祥子でもっても拭えない闇もち。いつか自立したいと考えている。夢はお金持ち。



余白すぎるオトコとのノート。

「大吾と祥子は黒崎教会にたどり着いた。ふたりきりで結婚式をあげるために」



水の都島原。長崎県に位置し豊富な湧水で知られる。町には水路がはり巡る。


「おはよう」朝は大吾の作る朝ご飯ではじまる、すがすがしいふたりの時間。

 ふたりは長崎にいた、大吾が親から譲り受けた物件を祥子はいたく気に入りふたりで住みたいと言った。

 大吾は好んでしお鮭を焼く。そしてたいがい前夜に祥子が炊飯器をセットした、ほかほかのご飯。あらかじめイチョウの形に祥子が切った大根に味付けをする大吾の特製おみそ汁。時間があるときにふたりで作り置きしておいたお惣菜を二、三品並べて、食卓を囲むのだ。

 島原で作られる味噌は、もろみも入ってコクも深い。それに大吾の愛情が注がれている。穏やかにはじまる一日は幸せそのものだった。祥子のお腹に芽生えた新たな息吹に大吾は毎日かたりかける。今日はふたりきりで外海の教会にむかう。白っぽい服を着て。コウも参列するよう呼びかけたのだが忙しいとの答えが返ってきた。


 コウは十六になる。一緒に長崎には来ず、自立したいといった。普段は冷めた態度で暮らしていたのだが、熱くプレゼンし、祥子と大吾を閉口させた。ちゃっかり金銭的な応援を嘆願し熱意で押した。

 初期投資は大吾から。家賃を全額と学費の半分の援助を約束し、のこりはコウが何とかする運びで見事に目的を果たした。コウは向かうとこ敵なし、子供のようで大人になりすぎた彼女の新しい進路は誰にも止めることができなかった。


 コウは名古屋の美術専門学校へ行くと言った。高校へは進学しないときめて、それはそれで凄まじく頑固だった。不動産めぐりの折に、祥子はコウとふたり、涼のもとを訪ねた、涼とは三年ぶりの再会で何の変哲もなかったが、なんとなく雰囲気に余裕を感じた。コウは涼とリモートでの面識はあった。初めての対面はやや緊張した。でも親からの「きちんとしたご挨拶」という課題に応えられた気でいた。涼はイラスト素材も取り扱っていた。

 涼にはすぐ頼れるイラストレーターが貴重な存在だった。また涼のアシスタントとして秘書業務ができそうなコウに期待を寄せた。コウも居酒屋でバイトするより少し割のいいバイト料で、家好き人嫌いな性格柄、在宅ワークができる環境は嬉しい。そして学歴欄に高校名が書けない履歴書と中学生活の思い出ひとつも語れない面接がないこの面談は最適だった。こじゃれたカフェに涼が案内してくれたので三人で就職祝いのケーキを食べた、甘い甘い、幸せなクリームだった。


 名古屋に来て一年。コウは、まだ祥子のお腹に妹か弟がいることを聞いていなかった。ただなぜか両親が教会で挙式するらしい。その旅費は持つから参列しないか、との誘いはふたりの教会好きがエスカレートしたのだろうと興味を持てず、話に乗らなかった。


 新しい家にも慣れてきた。ゴールデンウィークに外に出てみた。学校もまずまず、いい評価を得られている。仕事も何とか、課題だけが結構シャレにならないと思いながら…… 長崎に何か送ろうと思い、大須のインテリアショップでフワフワと佇んでいた。置き時計を手に取る。給料が出たばかりで、自分のために尽力してくれるふたりへ贈り物を考えていた、よくわからないが挙式するらしい。新婚のような時間を過ごしているだろうなと思いを馳せて、何かふたりで使えるもの。ふたりを応援したくて悩んだ末、その時計にした。なぜなら押すとSiriより変な声で時刻を伝える、そのバカバカしさはあのふたりにぴったりだったから。「これでよし」やばい、母親のひとりごとみたいだ、気をつけよう。と咄嗟に出た一言に苦笑い。


 大須にはいろんな店があり、誘惑もいっぱいで、他に自分のものを買う金銭的、時間的な余裕はあったが、いつかの為に使えるよう貯金しようと今日必要な食材だけ買って帰った。

 基本的にとても家が好きで、服も最低限は持っている。大吾の大盤振る舞いに甘えてインテリアも揃っている。何もほしいものはなかった。あわよくば、理解しあえる人があったら……これは贅沢かな。と自問した。

 今は何ら干渉されないワンルームでのんびり暮らす、のんびり居る。素敵すぎる生活に甘んじる。

 コウは密かに料理上手だ。母親がいないときは簡単な昼食を作ってみたり、菓子のストックがないとき小腹が空くと何かお菓子でも作って食べる習慣があった。料理レシピサイトで検索をかけるとなんでも食べたい料理が出てくる。たいがいの切り方、混ぜ方、炒め方に煮方は身についていた。せっかくだしさっき買ってきたホットケーキミックスでカップケーキ作るか。卵と計量カップを取り出した。


 祥子は三つのノートを手に入れた時を思い返した。

 まずコウが学校に行かなくなった、行けなくなった。理由があるらしいが中学の卒業まで口にはしなかった。

 始まりは簡単。遅刻が目立つ、遅刻が欠課になる、それでも行くことはできていた。しかし準備できても靴下を上げることが緩慢になる、祥子はただ見守るだけ、靴に足が着地できない、目に涙が溜まる、祥子は見守るだけ、行末をあんじながら……

「行けない」と小声でコウは呟く。

 行けないものは行けないそれでいい。行けないなら行けないなりの毎日の過ごし方があるだろう。涼にも大吾にも世話になった。このふたりがいなければきっと祥子の中で何かが崩れていただろう。そう感じる。


 コウが中学二年に進級した春、大吾は大阪にペンちゃんと越してきた。

 はじめは祥子と別宅という前提で話は進めていたのだが、物件探しの前日、大吾は大阪で祥子にプロポーズした。

 籍を入れて一緒に暮らそう、コウの面倒ももちろんみるし父親として関わりたい、お義父さんのことも気になるから。と言ってくれた。


 暮れから、祥子は末期癌の父親と対峙していた。母親が主介護者だった。当時、通っていたメディカルアロマ・リンパドレナージ講座で覚えた技術を週2回の訪問入浴後に施してた。父とは後悔のない別れ方がしたかった。けれど癌というものは人を蝕んでいく。歩けなくなり、食事はかろうじてベッド上で。

 祥子の母親も元ナースで介護を苦とは思っていなかったのだが、頑として介助を拒む父親は紙パンツを履こうとしなかった。しかし生理的に出るものは出る。全て片付けてコインランドリーで洗濯する母親。頭が下がる。


 ペットシートと安い衣料品売り場で買う布製の下着を紙パンツ代わりに利用していたが飽き飽きしている様子だった。祥子の助言で尿取りパッドを密かに仕込むようにした。しばらくは騙し騙しの介護が続いたのだが、だんだんと癌は進行する。痛みが強く現れるようになった。往診のドクターは在宅医療を専門としており、麻薬の調整が絶妙だった。麻薬と言ってもシール型のもので、ただテープライナーを剥がし、かぶれてない皮膚へ貼付する。それだけで、痛みが和らぐ。日を追うごとにミリ数が増えていった。同時に父親の意識がふわふわと宙を飛んでいるようだった。父親の発言。安直な言葉、加味していない言葉たちがベッド上を駆け巡った。かつて祥子が精神科で味わった自分が自分であって、でも自分ではない浮遊感。きっとあれなんだろうと。


 介護者としては食事の高カロリー栄養ドリンクをしっかり飲んでくれるし、拒んでいた下の世話も甘んじて受け入れるようになり楽になった様だけれど、この状態を母親はどう捉えているのだろうか。あまり突き詰めれないでいた。祥子はただただ、週に二回入浴の後のアロマテラピーに徹した。これだけが使命だと感じていた。

 そんな介護生活のさなかに大吾からのプロポーズを受けた。

 大吾からの言葉は、祥子にとってはとてもとても心強かった、心が折れるすれすれの毎日だったから。


 三人と一匹の暮らしが始まった。祥子は電車で父親の家へ通った。一ヶ月もないままに父親とは離別した。

 後悔はやっぱりある。でもできるだけのことはできたと納得していた。コウは学校に行っても行かなくてもいいような環境だったので引っ越しは特に抵抗はなかった。自分の部屋が与えられる、ひとり部屋に浮かれていた。両親は希望的観測で違う校区に通うことでまた新たに中学生活を再開できないか、なんてポジティブに新しい生活を思い描いた。結果は一緒だったが、大吾の提案でコウの親友が行っているフリースクールに通わせた。祖父の死を受けてコウも学ぶ場所へ足を向ける努力をしていた。スクールへは行ったり行かなかったりだったものの問題はない。彼女の勇気を両親はたたえていた。


 朝の早い大吾がだいたい朝食を準備する。四組の食器に三膳の箸を揃える。コーヒーにパンだった祥子とコウはこの丁寧な朝食がいたく気に入った。ひととおおりの食事が終わるといったん大吾は二時間弱の仮眠をとる。祥子が起こすので安心して眠る。そして一四時から本格的に仕事を片付ける。昼食の準備や買い出しは祥子が担当した。

 祥子は父親を見送ってからは、特に訪問入浴後のアロマセラピーに依頼を受けて伺うようになった。少しずつむくみが取れる結果が出て、当人や家族から感謝の言葉をもらう。いっぱいいっぱいだった介護も良かったとしみじみ思い出す。オフの日は相変わらずノートパソコンを叩いている。言葉の好きな大吾と一緒に居られて、きれいな言葉に魅了されている。きれいな言葉を使って紡いで、綴って。そんな毎日に時々、エッセンスの要素が絡まって。


 大吾と祥子は関西圏の教会を回り始めた。長崎ほどではないが、信者がいるところには教会がある。大吾はステンドグラスが好きだった。 ガラスから溢れる光に気持ちを奪われているようだった。あらゆる教会ならではの、時々にさす光とモチーフに感銘を受けていた。祥子はいまだマリア像に執着していた。子を眺めるマリア、十数年前に経験したこどもを抱くという行為。その子へ向ける愛情は期待でも希望でもなくただただ美しいものをながめるのと同じ感情でしかなかった。子は美しいものただそれだけ。

 人であろうと神であろうと。

 教会を巡るにつれて神戸という町にたどり着いた。長崎同様の貿易街。大吾は昔、横浜にも住んでいた。「神戸に行ったら貿易街コンプリートだよ」長崎時代に軽く話していた冗談が本当に叶ってしまった。


 祥子はどちらかというと仏教の教えが好きで、特に父方の臨済宗の禅の教えに傾倒していた。先祖を軽視していた父親は宗派問わず合祀される寺へ骨を埋めた。墓参りという行事を失った祥子は父親含め先祖の供養に禅の心をみがいた。都度、都度に京都にある禅寺へいっては、写経し納経して帰ることが多かった。書写が苦手な大吾は、別院の庭を愛でながら祥子の写経を待った。そこで感じる自然の風は仕事で募る疲れを流してくれた。あまり人気がなく庭の季節ごとの色合いがとても好きだった。


 大吾は夜になると視界が青ざめるといった現象を大阪に来てから話さなくなった。夜の散歩も怖がらず出かける。

 きちんと聞いてはないが良くなったのではないか、と希望的に観ていた。外出先でも色についてよく話すし色についての表現を熱く語っていたけれど。いつ頃からか、匂いや音に興味が変わってきたように祥子は感じはじめた、偶然なのか、運命なのか。まだこの時はピンと来ていなかった。


 季節がめぐり体育祭や文化祭といった学生にとって華やかな行事がある中、コウは全くの無関心でスクールに行ったり行かなかったりしていた。たまに行ったときに、芸術祭の招待状なるものを持ち帰ることがたびたびあった。

 どうやらスクールから応募したようだ。自室でも何かに集中していたのは絵画みたいだ。特別賞や優秀賞はとらないまでも佳作や入賞を多く獲得していた。もう親とは別行動すると、コウは友達と出かけて自分の作品を鑑賞していた。大吾と都合を合わせ祥子は案内された美術館や、娯楽施設、地下鉄通路、などあっちこっち観に行った。あまり思いたくはなかったが、大吾のコウへの評価が若干ずれていた。


 「網膜症ですね」大吾と祥子は総合病院の眼科で診断を受けた。糖尿が悪化したらしい。目にもたらされる病は進行しても元には戻らないと医者は言った。ただ、血糖をコントロールするのが進行を妨げる方法だとも。

 帰り道、ふたりで歩いた。電車にもタクシーにも乗りたくなかった。

「祥子ちゃん、これからはいろんな綺麗なものたくさん観て……そして俺にたくさん伝えて……」

 機能を失いつつある大吾の眼からたくさんの泪があふれ出していた。


 音や匂いに包まれる生活。こんな雑多な大阪なんかではできないし叶えられない。祥子は医者に宣言されたこと、これから起こりうる大吾のこと、祥子の希望を包み隠さずコウに伝えた。

「長崎に行きたい。ついてきて欲しい」

 コウが進路について悩み始めた一五の晩夏のことだった。


 コウの門出を祝福してから、ふたりは長崎に住まわった。


 ゴールデンウィークは観光客があるので教会には明けて二日後ぐらいに挙式したいことを伝えた。面白いことに運命なのか、この教会、信徒でなければ挙式できなかった。

 大吾は無宗教を気取っていたが冗談で「キリシタンになりたいんだ」なんて話すこともあった。「一緒に入信してみる?」あんなに熱心に仏や菩薩を信仰していた祥子だったが、大吾とならこの宗教に飛び込んでもいい。と咄嗟に大吾に迫ってみた。「いいね」二つ返事だった。

 どうしてもこの教会で挙式がしたかったわけでもなかったのだが、二人が行き着いた先に居たのは神だった。

 受洗準備は住まう近くのカトリック教会でも可能との事だった。少しクセのある神父に大吾は魅了されていった。聖書の内容は至ってシンプルだけれど、解釈が面白い。通例ではバージンロードは処女のものだが、この神父の理解により挙式できる手続きをとってもらった。少しクセのある神父と、少しクセのある新婦候補、とのキリスト教のお勉強は大吾にとっていい時間だった。熱心に学問に向かい合うことが意外と近くに神を感じることとなる。四十半ばをすぎた祥子が受胎したのだ。もうすぐ洗礼が受けられる矢先のことだった。


 禍福あざなえる縄のごとし。幸せとは紙一重で、引き換えに大切なものは奪われてゆくらしい。新しい命を歓迎する一方、大吾の視力低下を阻止できなくなってきた。かろうじて光を感じる、そんな状況だった。長崎の海の風、山の風、緑かおる丘。大吾とたくさん紡いできた美しい言葉で様々な教会のステンドグラスを祥子は大吾に形容した。白黒で機械的な子どものエコー写真でさえ、まるで立体的にカラフルな言葉を用いて説明した。


 ペンちゃんも老犬となってしまったが、三倍ぐらいの大きさのラブラドールの盲導犬を導入した、カッチョいい、ヤマトという名がつけられていた。成犬と老犬だが見た目は逆だった。ほぼ外出時と祥子が留守の時だけ活躍するヤマト。休み時間はもっぱらペンちゃんのお世話をしていた。


 長崎を選んで良かったと思っていた。「洗礼を受ける。」日本語ではいい意味に使われないが、神秘的で心から生を受けたこと、今までの罪を払いのけられたこと、神の子としてこれから生きられることに感謝しかなかった。言われてみれば、大吾は目が見えなくなったこと、何一つ後悔せずに祥子に接してきてはいないか。洗礼の儀式のさなかにふと祥子はそのことに気づいた。この人はキリストの勉強をする前からキリストなんだと。

 洗礼を受けてからもクセの強い神父の説教を聞きに日曜ごとに教会には行った。大吾も職場とは信頼関係もあり、音声ソフトを活用しながら在宅ワークをしていた。なぜか祥子にもお給料が入るシステムで大吾の至らない部分の補佐業務が舞い込んでいた。神の子は何かにつけて得をする。


 コウは来なかったが、食卓を片付けたあと長崎駅に向かった。そしてタクシーが教会まで海風とともにいざなった。道中、大吾は相変わらず長崎のいいところを運転手にインタビューしていた。次は行きたいね、メモがわりに携帯でドライバーとのやり取りをボイスレコーダーに収めていた。ちなみに大吾のボイスレコーダー特集はかなりの件数で管理しがたかった。文書を呼び起こす作業それ自体に大吾の楽しみがあった。

 どこの何が美味しくて、どこの何が綺麗いくて、そんなのはいいのだ。なんだかんだと人の温もりを感じる瞬間瞬間を大事にしているのだなということ。教会に到着する前、ドライバーに二人が白い装いをしているのを気づかれた。「お釣りは大丈夫です。」いつもの大吾のカッコ付けが始まったのだが、ドライバーは「ふたりに幸あれ。お釣りは受け取っていください、祝福として……」



「さっきのタクのドライバー素敵過ぎやろ」
 降りたと同時に大吾は無邪気に祥子に話しかける。ふたりで教会に向かうのだ、神となった大吾と今。



 黒崎教会聖堂は、信徒が奉仕の結晶として、ひとつひとつ積み上げたレンガで造られている。広い奥行きのある、平屋造り。大吾が愛したド・ロ神父の設計。式の最中は説明できなかったのだが、晴れ渡った今日、美しいステンドグラスの光たちを祥子は思いの限り見つかる言葉で大吾に伝えた。きっと大吾の心の中には祥子と同じ、あるいはそれ以上に美しい光がさしていただろう。

 大吾は聞いた。「ここのマリア様はどんなお姿なの。」
 祥子は答える。「一番、最後に大吾ちゃんが見た祥子そっくりだよ。」

 家に帰ると不在票があった。コウからだ。再配達を依頼したらすぐに届けてくれた。面白いものを送ってきた。セットした時計は時刻を変な音声で告げた。


「一八時二十分です。」

「Siriよりヘタクソ!」ふたりで笑った。


    (余白すぎるオトコとのノート 了)





隙間ないオトコとのノート。

「涼と祥子は熱田神宮の挙式控室にいた、涼の母親も穏やかな表情で準備している」



 コウは大須から帰ってカップケーキを作りながら思っていた。母親の破天荒ぶりについて。全くおなじ道は生きたくないし行かない。どちらかというと長野社長のような堅実な道が自分にはあってそう。


 コウは涼のことを苗字に役職名をつけて呼んでいた。なんとなく母親からそう呼びなさいと言われてから、ずっと同じ調子だった。コウが学校を本格的に休みはじめて出会った良心的な大人。LINEやメールでやり取りをし、時々コウの作品に対価を与えてくれた。決して子ども扱いはせず容赦ない時は容赦ない。手を抜いたら抜いたなりに次回は交渉価格が下がり、締め切りを過ぎると無視されることもあった。厳しい社会を教えてくれる長野社長。

 でも決してコウを見放すことはなかった。お金を得ることを美徳に感じさせてくれる人だった。十三歳になるまでコウはいわゆる中学生だった。


 朝ごはんを食べたり食べなかったりして、制服に手を通し、髪型を整えて通学し、アホな男子を眺めた。陽キャ女子たちのキラキラした姿はまっすぐすぎて吐きそうだった。

 夏休みが明ける前、誕生日を迎えた。二学期が始まり、ある日、自覚させられる。自分は浮いているということを。気にしないでおこうと思いながら、でもはっきり気づかされることが起きた。ちょっとした噂話だったけれどはっきりとコウの耳に届いた。「キモイ」

 このことは学校にも親にも話さなかった。話せなかった。


 学校に行かないでいいよ。その代わりするべきことはしなさい。母は勢いでいろいろ企画してきた。行けないなら家でテストしなさい。結果は出しなさい。お金が欲しかったら何か作り出して売りなさい。

 担任からはちゃっかりテスト範囲とテスト用紙を届けさせて預かる。変なツテだろう、長野社長が登場した、名古屋に住んでいるらしい。破天荒だから紹介だけで放置。見積書など書類の作成もコウ、メールで拡張子をつけて作品を送るのもコウ、あげく口座開設までやらされた。

 だんだん面倒くさくなって、だらだらしていると読みたかった本をチラつかせ、スケジュール帳を渡された。きっちり自分でスケジュール管理するのも仕事、と。謎のツキイチの三者面談も厳しい攻防のすえに負かされ無理くりスケジュールに組みこまれた。


 この母親、怖い。末恐ろしい存在だったけれど、何より味方でいてくれることは救われた。

 破天荒だからオトコもコロコロ変わった。というか、続かなかった。だが大吾ちゃんだけは真剣に付き合っていたみたいだった。大吾ちゃんがコウの養父になったからだ。


 大吾ちゃんは同居する前にたびたび会いに来た。じいちゃんが末期がんだから母親も長崎まで遠出できなくなってしまって。あんまりお笑いは知らないけれど、なんか面白い人。急だったけれど「パパにならせてください」の告白と同時に引っ越しを提案してきた。ひとり部屋をくれるのでちょっと嬉しかった。街の近くの物件らしくそれも愉快。一度だけペンちゃんを連れてきたことも。けっこう人なつっこいワンコをコウに託しふたりでどこか泊まりに行ってしまった。けれどペンちゃん、コロコロで可愛いくて心が緩んだ。三人と一匹が集まって、詳しい地図と間取りを見せてくれた。


 最後はコウちゃんに決定権があるから。と大吾ちゃんはコウの意見を優先してくれた。この時、破天荒な母親に覇気がなかったのもコウには、ものたりなかったし、母親を笑顔にするのは大吾ちゃんだと思った。



 あのふたりの結婚式か。ほんとに透き通った世界。わたし無理。

 大吾ちゃんが大きな犬を連れているって聞いていた。時計気に入ってくれたらいいな。レンジの付属オーブンがピーピーなった。糖分補給して片付けしたら、ちょっと残った課題にとりかろう。


 テーブルの上にリンゴとトマトと、グレープフルーツを並べる。ダイニングの明かりを消して自然光を入れる。光と影のコントラスト。わたしは鉛筆画が好きだ。デッサンと言うと本格的だけれど落書きを極めると言うコトバがぴったり。そういえば、この組み合わせ、毋親に一度頼まれたな。本出すから書いてとかほんと訳のわからない母親だ。長尾社長がトマトで、大吾ちゃんがリンゴ、母親がグレープフルーツ。意味はわからないけれどなんとなくは近い組みあわせ。


 デッサンは光を足すことができない。白紙の白が一番のハイトーン。

 どう立体感を出すか、どうフォルムを魅せるか。黒と白とグレーの中をぐるぐるイメージしてこのたべもの達の三つそれぞれの個性が引き立つ映像をまずダウンロードした。いつもの作業。アウトプットは目をつむっても、は大袈裟だけれど、画材と向き合えば脳が手の神経を介して運んでくれる。

 大吾ちゃんには「エプソンか?」って評されたこともあった。この能力はあまり人には話していない。努力とは違った「なにか」が自分を動かしている、そのままを話すとみんな引くから言わない。ただ技法がどうとか、工程どうとかは知らないけれど、仕上がりはまずまずの評価だ。

 コウの画風は影を強調するものが多い。母親はあんたのまんまだね、なんて嫌味を言う。わたしは闇が深いそうだ。もちろん大吾ちゃんや母親みたいなピカピカな輝きはない。よく知っている。だから影をたくさん作ってモチーフ達にたくさんの光を浴びせているのだ。そうこのモチーフ達はわたしの憧れ、そして、影が私なのかもしれない。


 しばらくして、携帯に謎のLINEがコウに届いた。お姉ちゃんになったよ。だけ。まぁけっこう見た目そうだし、わたしを呼ぶ他人は「おねぇちゃん」と呼ぶのだけれど、謎。とりあえず既読つけて放っておいた。そんなにすぐ解決したいわけでもなかったので淡々と日々を過ごしていた。またある日、次のLINEが届く。男の子だよ。「ん?」おねぇちゃんに男の子。

察した。

ちょっと、あのふたり何考えてるの、結婚式といい、妊娠って。

中年達の妊娠と出産か。これは放ってはおけないけれど、直接、連絡すると激しいマシンガントークに合うのは目に見えている。落ち着こう、まず社長。そう長尾社長、相談してみよう。

 「そっか。ふーん、なるほど……」

 大須の喫茶店で長野社長とうちあわせを兼ねた雑談中に胸の内を明かした。祝福はしている、大吾ちゃんも目があんな事になっちゃったし、赤ちゃんはじいちゃんの生まれ変わりなのかも。学校の同級生はみんな年上だからそう言った話も耳にする。彼との子どもを身ごもった人もいたようだし。妊娠なんて簡単なものなんかな。そんな呟きを長野社長は遮った。

「身体が心配だね、妊娠も簡単にはできない年だし、きっと出産も大変だと思うよ。失礼だけど高齢出産じゃん。大吾さんも目が見えればカバーできると思うけれど。うん、大体いつ生まれるか聞いて、学校も少し休んで、仕事も休めばいいよ。お母さん達助けておいで。その間、育休みたいな制度ないか調べてみるし、なかったらなんとかするから安心して。」


 通話するのはやっぱり面倒くさいのでしばらくLINEのラリーでつなげた。あと五ヶ月ほどで生まれるらしい。コンビニでたまごクラブ、ひよこクラブを手にとり、恥を忍んでレジに並んだ。


 読み耽ってしまった。けっこう人が生まれる事とか、子供の成長とかすごいんだ。その前にこんなに妊娠や出産を心待ちにしていたり、キラキラした感情で待ってる人がいるなんて。日本は平和だ。そら、母親もあのテンションだわ。


 社長はああ言ったけれど、長崎行きはちょっと大変。放ってはおけないけれど。

 次の登校日に教務課へ赴き、話の流れを説明し何日休めるのか聞いた。課題を早く仕上げられるんのであれば問題ないとの答えを得られた。ほぼ一ヶ月の休暇か。中学時代を思い出しながら、その日の画材たちをまとめた。


 刺激的な一ヶ月の始まり。コウは初めてふたりの新居に伺う。母親は、この部屋使ってと客間に通してくれた。見ため妊婦妊婦していなかった。少しお腹が目立っていたが、以前も下腹が出てたのでちょっと貫禄がまたついたかな、ぐらいの印象だった。それに経産婦ならではの余裕の立ち居振る舞い。まだ長崎はそこまで冷え込みもなく洋服も薄かったので、チラッとお腹を見せてくれた。いわゆる妊娠線がない。この親すごい、妊娠線を作らない技術があるらしい。プロだ。それよりちょうどここが足、今は起きてるよ。とニュッと動く皮膚が踵らしいデコボコを見せてくれた。明日、入院し誘発をかけて出産すると言う。家族構成や年齢を加味して主治医が提案した出産計画に従うようだ。大吾ちゃんも準備に余念がなく、必要なものを最低限準備してくれていた。

 コウは両親と弟の出産に臨む。


 大吾ちゃんとワンコ達と母親を四日待った。大吾ちゃんの生活は至ってシンプルだった。できないことはできないからこうしてほしいが明確で的確。無駄がない。料理に関してはまあまあ自信があったので、全部任せてもらおうと思っていた。けれど、大吾ちゃんはこう指示する、この人参はだいたい3センチの長さで拍子切りして。など、コメだけは分量を合わせて炊くのを全部任せてくれた。音で見極める焼き加減も母親よりめちゃくちゃ絶妙。どうやらこんな感じで二人はできないことを補い合っているらしい。

 大吾ちゃんのご飯は昔に比べて繊細な味になっていた。めちゃくちゃおいしい。「まいった」のその一言。


 そして母親と「利」と名づけられた弟を迎えた。久しぶりの賑やかな食卓、ペンちゃんもヤマトも「利」もみんな可愛い。「家族」これが家族。一年ほど会ってなかった新鮮さと、相変わらずの大吾ちゃんの様子にほっとした。懐かしく賑やか。たまにはいいか、まぁ年一だよね。毛嫌いしていたキラキラした世界もちょっと悪くないと思いながら特急かもめに揺られた。


「なんか、刺激あったみたいだね」

母親にココと言われた、文明堂のカステラを持って休職させてもらったお礼に長野社長と会った。  そう言うとこが厳しくて細かい。いつもの喫茶店でストレートティーをご馳走になる。顔色が違うそうだ。そらそう、あの環境で変わらない人なんていない。


 一晩眠り課題の続きを始める。

 なんとなく違和感を感じる。コントラストがきつい。と言うか激しかったのを恥ずかしく感じた。消しゴムを使い濃く描いていた部分を薄くぼかしてゆく。あの長崎にいいたらもっともっと強くなりそうなものだが、コウにはもう少し影を薄く描こう、そう言った感情を抱いた。どんどん白い白紙に余白ができるようになった。そして、画風が優しさを見出した。「利」が生まれたからだろうか。ヤマトにあったからだろうか。ペンちゃんが老いたからだろうか。

 違う、長崎には「慈愛」と言う愛があったのだ。大阪では感じなかった。慈愛そのもの。

 大吾ちゃんに対しても自然と接して気遣いができた、でも大吾ちゃんは目が見えない分もっとわたしをいたわってくれた。母親もそう。「利」を見ながらわたしにも目をかけてくれた。それは大吾ちゃんの分の四つの目で。

 離れると言う選択をしたけれど、一番家族を感じた一ヶ月だったし、これからも続くんだろうなと思う。


 馬鹿にしていたけれど、恋がしたい。心から思った。

 そして少しずつ涼を意識し始めた。この人は昔のわたしも今のわたしもわかってくれている。ただ向かっているのは、めとられた母親。ライバルが母親なんてださいけれど、あの妊娠線をつくらない女子力には感服。意外と、見ため若いし。コンビニでアンアンのセックス特集を手にした。

 確か小四かな、こんな特集をわたしに渡して、オトコとはとか説いていたな。懐かしい、けれどバイブルだ。二度目の羞恥心を捨ててまたコウはコンビニのレジに並ぶ。

 そのアンアンが功を奏したのか五年後、涼とコウは熱田神宮で着物に袖を通していた。涼はちょっと成人式? と思う明るめの袴、コウは白無垢に文金高島田。母親の一回目の結婚式と同じく人前でキスをするのが嫌だから。ただそれだけの理由で自分の姿をみながら、気持ちを整えていた。


 家族控え室では両家の親が顔をそろえる。今日はヤマトとペンチャンはサポーターさんに見てもらってお休み。白杖を持った紋付袴の大吾が涼の母親を笑わせている。そうこうしている内にお支度が整いました。と後見さんがコウと涼を連れて声をかけてくれた。
「天気良好。新郎新婦も涼コウだね」馬鹿な両親が茶化した。


     (隙間ないオトコとのノート 了)





ムダなく使い切る私のノート


「祥子は植物園の定位置でMacBook Airを叩いていた。ふたりの紳士に想いを馳せて」






 祥子は再び大阪に舞い戻った。大切な人を亡くしたから。コウも四十路になった。コウと涼はふたりの子供に恵まれ、彼の母親ともうまく付き合って育てあげた。十八と二十の立派な親だ。


 大吾は「ペンちゃんより一日だけ長く生きられたらそれでいい」と言っていた。大吾はヤマトと祥子と一緒にペンちゃんを見送った。たくさん泣いていたけれど、また前向きになった大吾の姿に安堵した。目はあまり良くはならなかった。しかしこの五〜六年で永く頑張った大吾の消化器は悲鳴を上げていたようだ。幸い末端の組織に影響なく、四肢のある状態で旅立った。長崎の丘にあるフィリッポ教会で式を執り行い大手葬儀会社の持つ樹木の下に眠った。もちろん祥子も同じ樹のしたに眠るつもりだ。

 きっと季節が変わるたび祥子は長崎へ行くだろうと思いながら大阪に舞い戻ってきた。かつて大吾が好きだったサッカースタジアムのある公園の近くに。今はサッカー人口が減ってしまいスタジアムだけ移転してしまった。他の施設はリニューアルすることもなくまだまだ居続ける。ただ時間が飛んでスタジアム周辺は、自動車教習所ができた。空飛ぶ自動車の免許場。


 変化なく植物園や噴水、ため池はそのノスタルジーを醸し出す。かつて祥子が文章に煮詰まった時に逃げ込んだベンチ。今や特等席だ。

 木々が少しずつ緑色を薄め、黄色や赤のコントラストを魅せてくる。ようやく秋がきたらしい、肌寒くなってきた。時間がある時やアイデアが浮かぶときにはこうして大吾の残したMacBook Airを携えやってくる。当時はなんでもできてコンパクトだったこのノートも今や化石同然に茶化される。


 しかしこのノート、不思議と指が動く。もう創作のようなことはしていないのだが、日記、雑記と言った、少し思う事があったらこうして自然の中でノートを叩いている。初老の楽しみの一つ。「利」は長崎の大学を卒業し、広告の会社でコピーライティングの仕事についた。父親と母親のコトバ遊びの中で育ったのだろう。
美しいものをどう父親に形容するか、A Iや広辞苑をたよりに日本語を突き詰めてきた。また大吾から見れるときに見ておいでと一年ほどイギリスへ留学もした。


 微妙なワード、センテンスを吸収して帰ってきた「利」は大吾に新しい異国の風を運んで来た。大吾の最後には、彼女と揃ってふたりのもとへやってきた。瞳の綺麗な女性で「利」が大吾に説明するときは、本当に惚れ込んでいるのだなと祥子を嫉妬させた。


 ベンチを占有し祥子はカバンからノートの形をした茶けた冊子を出す。「3notes」かつてこのノートで書き上げた処女作だった。なんて乱暴な文章達だろう。やっぱりいつもいつも恥ずかしく思う。けれど、この荒々しさがなかったら、きっとこの人生にはたどり着けていなかっただろうとも思う。彼らとの出会いのこの冊子、羞恥の若き思い出たち。そう、小説とうたっていた文章達は稚拙なコトバだらけのただの記録だった。けれども祥子は読む、読んで読んで。キラキラしていた涼や大吾たちとの出会った季節を読み漁る。



 今、目の前には小学生だろうか、遠足でガヤガヤと自由行動を楽しんでいる。彼らのエネルギーのようだ。この照り光った輝きを受けたひまわり達みたいな内容は、このA5用紙を束ねた秋に向けて枯れてゆく黄金色の世界とは真反対の神々しい光だった。記録でもいい、あの時のヒントがこの文章、コトバに散りばめられていた。必死に生きたあの頃が巡ってくる。そう。必死だったな。


 思い出す、プロポーズされる前に長崎に紅葉を見に行こうとした矢先のこと。

「やった」コウの元に楽天ポイントで注文したアイフォンが届いた。コウはアプリの引き継ぎに胸おどらせながらも引き継げなかったデータたちに悲しみとさよならを奥にしまった。

「パパ? コウです。うん、元気」今まで会えないだろうと思っていたコウのパパ、弘樹。

 LINEをママから伝え聞き、すこしならと通話の許可をもらった。パパは話しやすくて、コウのことよくわかっている。ついつい好きな配信者の話とかゲームの話とか、今までココロに鍵かけた鎖が解けていくように話した。とても楽しかった。


 一方、ママはなんかイライラしているみたい、まぁいいや、無視。パパに会ってみたいな。また連絡しよう、ママがめんどくさいからとりあえず通話は切った。そして祥子から弘樹の連絡を取り上げる旨の発言で絶望を知る。


 また、祥子のアイフォンも鳴った。父親からだ。
「わし、どうなっとんの。ここ病院みたいやけど、みんな帰って、どうしたらいい」謎の電話だった。

 詳細をスタッフに聞くとどうやら発熱からの入院みたいだった。そして時節柄、PCR検査を終えるまでは陰圧ルームでの治療と検査が必要だった。防護着のスタッフとしか関わっていないらしい。混乱しているみたいだった。

 とにかく落ち着くよう話す、携帯は手の届かないところにとスタッフに伝えた。がんは進行をやめず痛みが増したと言う。それに伴って医療用麻薬の服用量も増した。それによる副作用のせん妄なのか、父親は威厳のいの字もなくオロオロしていた。


 祥子は押し入れにあるアルバムから幼い家族写真を引っ張り出して束ねた。きっとどんどん忘れゆくであろう父親に少しでも記憶してもらいたくて。明日、差し入れよう。

 アルバムから剥がす写真たちには、輝いていた家族像があった。そしてそこに一葉の写真。かつて小学生でこの世を去った従兄弟とのもの。みんな、笑って写っていた。

「生きていたら……」なんて野暮だ。

人には寿命があるのだ。彼女が生まれてきた理由、逝ってしまった理由を今世の私たちがどう受け止めるかしか真理はない。そして父親もその道を辿る。その道を花道にしてあげたいな。


 次の日、祥子は交差点で泣き崩れそうだった。もう父親との日もいくばくかな……アイフォンから流れる竹内まりやの「人生の扉」を聴き流す事もかなわず、ヒトの人生の儚さに囚われていた。足を前に進めなきゃ、とにかく、前に。泪をかくせないで歩くことに集中した。幸いPCR検査は、結果陰性とのことで父親にかろうじて会うことができた。さっきの泪のあとに。


 「さて長女でしょうか、次女の祥子でしょうか」簡単なクイズ。父親は迷いながらも、祥子と答えた。まだ生ききれる、大丈夫。安堵した。幸いその入院は症状が緩和し退院することができた。そのかわり治療という文字が消える、ターミナル期いわゆる緩和ケアのスタート。


 そんな気持ちがモヤモヤしているさなか、コウの携帯依存に困ってきた。どこまで許せばいいものか。ひらめいたのはかつて祥子を苦しめた弘樹であった、しかし、頼った末にまた苦しめられる。コウはだんだんと弘樹に似てきた。遺伝はそんなに深いものなのか、環境を工夫したけれど難しいものだった。

 中学校に上がってからのコウは絵画にこだわったり、いわゆる音ゲーというゲームにハマったり。祥子にはわからない世界に浸かりはじめていた。そんなコウを一歩どころか百歩はなれて呆れてみていた。


 彼女は言う、じいちゃんには世話になった記憶がない、配信者が優先だ。と。

 父親はコウが二、三才の時、遠い保育園まで週三回送迎してくれていた。この時、入院で祥子からコウを託された。記憶とは。人それぞれ、きっとコウにはこの時の記憶は不要むしろ不適切であり、忘れたかった過去なのだろう。


 弘樹と繋がったコウは嬉しそうだった。ケタケタと話す声色が、オトコと話す祥子のそれと似ていた。大変な時もひとりで育て上げてきたコウをあっさり取られたような疎外感のような孤独を味わった。弘樹のそのズルさを許せなかった。冷たいけれどコウにはやっぱり約束が必要だと告げた。


 コウの目にはじわじわ泪が溜まる。

「それやったら最初からパパないにしてよ」痛々しい叫びが祥子の心にささった。そんな思いをさせて私だけ長崎には行けない。紅葉がりなんていう心のきれいな人がする行為、今は無理。そう大吾に伝えた。

「うん、祥子ちゃんと家族が優先だから大丈夫だよ、また俺が大阪行くから。」大吾は常に優しかった。


あくる日事件が起きた。


 一七時〇四分アイフォンが時をさした時、コウが帰ってきた。二時間余り徘徊した後の結果。イラストの報酬を手にするのに便利だからとキャッシュカードを作る事を提示してからのこと。コウが銀行に向かう前、祥子は一七時には帰りなさいよと伝えた後のことだった。〇四分の遅刻。どこで何をするとも報告ないままの徘徊。きっと外で携帯で出来ることを楽しんでいたのだろう。と勝手に巡らした。

 荒ぶる神、スサノオに憑かれたかの如く。祥子はコウの頬をはたいた。あし技を掛け、押したおし、腹部を足でロックした。この家のボスは祥子だと言わんばかりに強さをコウに見せつけた。この家には規律がない。ふわふわとした空間にケジメをつけるため。というのは言い訳なのか、祥子は疲弊していた、ただそれだけ。


 一言、一一〇番しなとコウに言い放った。


「一七時五六分ゲンタイね。もうあなたは今からは自由ないです」



 この季節のことだった。イチョウがイチョウらしく葉を黄金に染めるこの季節。いつもほろ苦く思い出すのだ。今となってはうすぼやけた黄金色。

 祥子は事件が起きるまで永遠にゴールドを好きになれなかった。嫌味なイヤラシイ色、そんな風に思っていた。黄金、オリンピックでもこの色を手にする者は限られる。皆がみな手にできるわけでなくうらやましい存在。

そう、うらやましいもの、欲しくて仕方のないもの、それを欲しいと言えない自分が嫌味でイヤラシかったのだ。


 祥子は抑されるとき、自分の成長を感じる。それだけ自分と向き合って対話して、反省すべきは反省した。何があろうと愛ムスメ手をあげてはいけない。平和的に話し合えなかった親子。という事実を受け止める。ただなにがどうしてこんな事になったか、分析に分析を重ねて、毎回、予防線を張った。この後はこう言った事件は、大吾のおかげでなんとか起きず、静かに暮らせる今に至っている。


 匣のなかの祥子は、かつてのガラシャ夫人の影をみた。その昔、明智光秀、謀反者の娘として夫より命じられ幽閉されたガラシャ夫人、細川珠子、戦国期のキリシタン。匣の祥子の精神を支えたような錯覚があった。不安と恐れが伴う閉塞空間をやり過ごし、必ず日が昇ることを信じた。

 長崎のガラシャ夫人が合掌したステンドグラスの光を、心の目で感じる努力をした。日が昇らないかもしれない動物的な不安。きっと日蝕や月蝕に会う野生のケモノたちのざわついた勘と似ているだろう。そのステンドグラスの中に黄金色、ゴールドの輝きがあった。


 祥子は何もかも赦そう、それこそが愛であり慈悲なのだと。


 大吾は祥子を全力でフォローした、いつのまにか余白に不安が詰まったようだった。涼もコウを全力でフォローした、リモートで。境遇とリンクしたのか、隙間におもんばかるココロを余した。


 そんな汐あいに感謝する。


 枯れゆく葉の色と斜陽の刺す影、あの時の感情がよぎった。

 目線を上げると、秋の澄んだ青空が広がっている。夏の雲は過ぎ去り、天井を高くした。教会で観る天井のような、開放された宙、薄雲は天井はここだよと言わんばかりに広がっている。宙は拘置所から児童相談所を繋ぐ。宙は大阪のちっぽけな町と長崎の水路沿いを繋ぐ。そして今世の祥子と愛する夫の居場所を繋ぐのだ。


 年末に「利」が彼女を連れてやってきた。まだお互い仕事が楽しく結婚はしないらしい。今や人口も移民を受け入れ安定している。目くじら立てて子供を欲する風潮も恥ずかしい時代になった。かつて愛した長崎の地でその彼女と共有財産として家を買ったとの事後相談を携えて。ありがたいことに祥子も一緒にどうかと聞いてくれた。

 祥子は茶けた「3notes」に問いかける。「利」達と過ごすのが良いのか、この地で余生を過ごすのがいいのか。結論、距離でも時間でも密度でもない。そこに愛があるのなら、どこだっていい。




 祥子と大吾の愛したこの地で過ごそう。そうしよう。


諳んじる、

大吾さん

おはよう
いつも有難う
あなたといれてあたしは今日も幸せです



長崎の水路は今日も滞りなくはり巡る。観光客がはしゃぐ眼鏡橋あたりをよそに。


    (ムダなく使い切る私のノート 了)






楽子から


 最後まで読んでいただきありがとうございました。テーマは「裏切り」楽子はこんなハートフルな最後を描くのだと言う「裏切り」です。期待はずれだったかもしれません。わたしが人生で大きなターニングポイントを走り抜けたろうこの3notesシリーズ。年甲斐もなく青春でした。もう黄春ですね。

 きれいにまとめる、整える。コトバであれ文章であれ。ここを整えると心がまとまる、整うことがよく分かりました。わたし自身何度もよみ返した文章なので新鮮さがないのですが。 
 もし、はじめて読まれて、少しでも気持ちがまとまったり整ったりされたら、それはそれは幸せな事です。


                   楽子

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