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【短編小説】白い格子


              今秦 楽子




今わたしはそこにいる。
      誰も来ない格子の中に。



♢1

そこは刺激を避けるために存在する「保護室」
と呼ばれる格子の中。
精神科病棟独特の治療室。
何度『収容』されたことだろう。
その光景は強烈すぎて記憶が
あやふやなのだけれども。

いつもこの格子の中で時間を潰すのに
トイレットペーパーとトイレの水栓。
後は防音壁に響くわたしの歌声が必要だった。


「また、やってる、
そんなにトイレットペーパー出して……」

「……」

看護者のこんな言葉が響く。

保護室にはベッドはなく側面は防音の壁2面、
中央にシャッターの閉まった大きな窓。
入り口は重たい扉で閉め切られていた。
床の中央に
裸のマットレスが横たわっているだけ。

……この地べたの四隅にたまっているホコリは
異様に気になった。ここの床は床で
わたし自身の生活の場なのだ……
平気で看護者は土足で踏み入る。
気になっても止まないホコリ達。
やはり今日もトイレットペーパーで
それを拭っていた。
理由も知らないのに、
それをも異常行動と括る看護者だから。

「流して欲しい…」

「あ、トイレ? トイレ見せてな、あー、
便出てるね」

彼らは
食事を下膳するタイミングでそこを見る。
その時しか部屋の中には入って来ないので、
わたしは排泄物が放置なまま食事することも
しばしばだった。
特に男性看護師の多い精神病院には
気遣いがない。まるで……「飼育」 なんだ。
わたしは動物園の展示物。

食事、水分を与えられ排泄物を観察され
体調を気遣われる。動物と違うところは、
この身体を沈静させる抗精神薬を
どんどん投与されること。
そして身体は溶けるまで溶けてゆく。
だんだんと床に根付いてゆく。
けれどいつまでも展示物のままだった。


♢2

繰り返す躁転で
わたしは周りに迷惑をかけて来た。
親や子どもや友人や。
その都度都度に、親を悲しませ、
子どもを呆れさせ、友は離れていった。
      ……脳の病気、なのだけれど。

「躁」 が続くと頭がよく回る。
運も味方して神がかっている事が次々起きる。
例えば
入荷予定のない限定品を手にする事だったり、
会えないと思っていた人と出会えたり。

わたしの「躁」 体験は
そんな心地いいものだったりするけれど、
神経が異常に集中できるようになる。
けれど果ては何かに監視されている
「被害妄想」に変わっていくのだ。
妄想も過ぎると警察へ駆け込んで。
警察はわたしの支離滅裂な言動で
保護者を探す。
見つかった保護者は保護を放棄するため
精神科病院へ入院させる。
そこに待っているのが保護室なのだ。


♢3

ある日そんな保護室で、
わたしは妄想と現実との間にいた。
少しずつ身体に変化が起きからだ。
肌にハリが戻って来た。
白髪が減って、髪も艶やかになった。
見た目が30代のように若々しく、
わたしはその変化を喜んだ。

ただ保護室の中に入ってその変化に気づく
看護者は誰ひとりいなかった。
この若返りは、きっと妄想だろうと
わたしはタカを括っていた。

何も恐れず
日ごとに艶めく手の甲を撫でていた。
感触では20代だろうか、
皮膚からみずみずしい透明感が
感じられるようにもなって。
清潔のため連れられる浴槽の鏡には
かつて引力と対峙していた乳房が
引力に負けぬ高さにぶら下がっていた。
これは妄想ではないと確信したわたしは
看護者に訴える。

「入院してから若返ってる」

「そうなの、どこがか、わからないけれど?」

「肌艶とか、全然違ってて」

「うらやましい話ですね」

……信じてもらえていない……


♢4

それでも若返りは止まらない。
今度は身長が縮み始めた。
胸も萎縮し始める。
思春期へと進んでいったようで
声も甲高くなる。

食事をさげる看護者に自分の変化を
さけんでも、若いっていいね。
そんな言葉で
ただ右から左に受け流すだけだった。
いよいよ身長が看護者の腰あたりになるほど
若返りが進んだ。
それを持ってしても
看護者はいつも通り便器を覗いては
それを流すために部屋へ入るのみだった。

わたしは焦りを感じた。
変化しているのに変化ととらない看護者たち。

「このまま赤ちゃんまで戻ったら……」

その不安通り、
日ごとに言葉が出てこなくなってしまう。
安易な言葉しか脳は見つけられない。
看護者たちも
わたしの簡単な単語は扱いやすく過ごす。
感情が溢れると泣き声を上げてわめくわたしに「はじまった」 
と言わんばかりに中央のドアを固く締める。
もう話したくもなくなったその時、
胎児にわたしは変わった。
そこからの変化は早くて
「ぽん」 と受精卵に戻った。

つぎの食事が来たとき
看護師たちは騒ぎ立てるだろうな。
なんてわたしが考える脳も、
この世にはなくなっていた。





今、「無」になってわたしはそこにいる。
          誰も来ない格子の中に。






……目を覚ますと汗だくだった。


                 (了)


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