見出し画像

【小説】レイピアペンダント 1

 予想通り、一時間も経たないうちにトイレで吐いた。昨日から軽いものしか食べていなかったが、それでも大量の嘔吐物が飛び出てきた。なんとか着物を汚さないようにして、出せるだけ出しきってしまう。
 右手の甲に、紅が付いていた。それを見て、また不快感が胸に溢れてくる。今日の僕は、とてもひどい。師匠の買ってくれた着物は、鮮やかなピンクの桜柄のものだった。もし僕が彼女にプレゼントするなら、こういうものを選びたいかもしれない。でも、自分で着るとなると別だ。髪を結いあげられ、顔を塗りたくられ、僕はすっかり女の子に仕立て上げられてしまった。
 他の棋戦ならば、スーツでも何でもよかったのだ。けれどもこのタイトルは着物店がスポンサーになっていて、対局者が着物姿をお披露目するのが恒例になっている。普段から女の子らしいものを着ていなかったせいで、余計に今回の僕の着物姿をみんなが期待することになってしまった。
 小学生の頃、まだ僕の病気を知らなかった両親は、僕のためにいっぱいかわいい洋服を買ってきてくれた。けれども僕はすぐに泥んこになるまで遊んで、それを汚したり破いたりしてしまった。そして、だんだんスカートやひらひらの服を着ることが苦痛になってきて、さらには気持ち悪くなってきた。僕は、女の子じゃない。初めてはっきりとそう言ったとき、両親は目をまん丸くしていた。
 大人になるにつれて症状はひどくなっていった。鏡の前で、女装している自分を確認しては泣いた。丸くなっていく体にも、流れ出る血にも泣いた。
 泣き続けて、いつからか吐くようになって、そして将棋で負けて、僕は打ちのめされた。女流棋士という肩書を受け入れる時、僕は誓った。絶対にトップになって、一人の棋士として恐れられるようになると。
 タイトルを獲れば、その目標に一歩近付けるのに。まさか、また「女らしい装い」が敵になるだなんて。
 吐き出すものがなくなっても、喉は、心は、嘔吐物を求め続けた。僕は、必死で恐怖を吐き出し続けた。


 盤の上に、絵が描かれている。
 僕は、それを普通だと思っていた。人と違うと気がついたのは、プロを目指すようになってからだった。
 僕は、盤面に広がった模様が、揺れながら動こうとする様を見つめている。その中から一つ駒を動かすと、新しい絵へと描き換えられる。予想していた通りのこともあるし、全く違うものになっていることもある。
 僕は局面をとらえられない。動きの中でしか、将棋を理解できない。だから他人の将棋を見ても、よくわからないことが多い。基本的なことには、ついていける。けれども他人の将棋には、「物語」が感じられない。絵の揺らぎを理解しなければ、次の絵は思い浮かべられない。
 登場人物たちの織りなす絵画を、この手で操る。それが僕にとって、将棋の醍醐味だった。そしてその特異な感覚は、小学生のうちはとても役に立った。見た目が女の子ということも相手を緊張させていたのだろうが、なによりも指し手の特異さが相手を惑わしていたらしい。
 基本的にはあの頃から変わっていない。見えてしまうものは仕方ない。たとえ他のプロと全く違う方法であろうと、勝利を手に入れられるならば、それでいいと思っている。けれども、僕は何回も負けた。奨励会に入れなかった。女流育成会ですんなりと上がれなかった。今日までタイトル戦に参加できなかった。
 女性として生きることだけでも苦痛なのに、女性の中で争うことは本当に心を締め付けられる思いだった。それでもプロへとたどり着くためならばと、必死になってこの世界にしがみついてきた。
 今僕の前には、長年女流棋界を引っ張ってきた先輩が座っている。決して順風満帆とはいえなかった道のりを、時には強引に乗り切り、時にはかろやかに飛び越えてきた。何人もの男性棋士に勝ち、テレビにも出て、そしていつもいつも将棋の上達に取り組んできた。僕は三年間その姿を見てきて、本当に尊敬するようになった。彼女がいなければ、女流棋界はただのアシスタント請負業になっていただろう。女性でも将棋に熱心になれることを示してくれたからこそ、僕のような中途半端な存在にも機会が与えられたのだ。
 勝負の世界では、勝つことが最大の恩返しだ。僕は今日、最高の絵を描き、最高の物語を紡ぎ出したいと思っている。それだけではプロの世界で生き抜いていけないことは分かっている。定跡、構想力、終盤力、呼吸。さまざまな要素が絡まりあって、「強さ」は形成されている。でも僕には、絵が見えている。これが、僕の将棋。
 嘔吐感が喉から下を狂わす中、頭痛にも襲われる。タイトル戦の進行は極端に遅い。アマチュアから女流になった僕にとって、まるまる一日かけて対局を行うのは本当に珍しいことなのだ。座っているだけでも、きつい。相手の方は慣れているのだろう、苦しげな様子は一切見せていない。
 今は僕の手番で、指し手も決まっていた。けれども、すぐに着手する気にはなれなかった。ハンカチで口を拭い、コーヒーを口に含んだ。空っぽの胃に、苦い痛みが沁み渡る。
 この一手は、流れを変えることになるかもしれない。時間は午後二時。盤を見つめる。喜劇なのか、悲劇なのか。今広がるのは、大きく開けた戦乱の一枚。
 駒台から、銀をつまむ。いつもよりも重たい。もしかしたら、名画を台無しにしてしまう一滴かもしれない。それでも、僕は納得する。これが僕にとって、最善の一手だ。
 盤に落とされた一枚の銀。波紋を広げて、キャンバスを揺らす。


【解説】

・レイピアペンダント
 実は、私が初めて書いた長編将棋小説です。ファンタジー以外のものを書こうと思った時に、自分が詳しいこと、そしてテーマにしたいことを考え、将棋を舞台にしたものを書くことにしました。そのテーマとは、「マイノリティ内マイノリティ」です。将棋というマイノリティ、そして性同一性障害というマイノリティ、そのどちらのマイノリティ内でも浮いてしまう少女、それがこの作品の主人公です。この作品は講談社Birthという毎月選考される賞で、ある月の最終選考まで残りました。自分にとって、思い出深い作品です。

・着物
 男性棋士の場合、明確な規定はなくとも、普段の対局はスーツ、タイトル戦は着物、という人がほとんどです。それに対して女流棋戦では、はっきりとしたドレスコードがありません。また、タイトル戦ではないものの実際に着物店がスポンサーになった棋戦があります。着物と将棋には深いかかわりがあるのです。

・盤上の絵
 実は、この設定は私の経験をもとにしています。盤上は人によって見え方が異なるようで、そのまま駒の配置をとらえる人もいれば、駒の動きが見えている、という人もいます。そして私は、全体が絵のように見えています。曖昧な見え方なので、時に大きなミスにつながってしまいます。ですが、「絵的に綺麗な局面」が、実際に有利であることも多いです。このあたりは、説明が難しいですね。

・女流育成会
 以前は、女流棋士を目指す人たちのリーグ戦があり、そこで規定の成績を収めると女流棋士になることができました。現在では男性と一緒に研修会というところで戦い、C1クラスに上がると女流3級となることができます。そこでさらに決められた成績を収めると、女流2級となり、正式な女流棋士となるのです。

サポートいただければ、詩集を出して皆様にお届けしたいです。文字が小さくてむっちゃボリュームのある詩集を作りたいです。