承認欲求についても、また語っておく。

承認欲求についても、また語っておく。

承認欲求、それが多く人を突き動かしている面はあると思う。承認欲求が見え透いているのがなんだか恥ずかしくって、動けなくなることも含め、影響力が強い心の動きがこれだ。

欲求、なんて言葉だから、一種ポジティブな、強く積極的な印象を持つが、実のところ、僕は違うと考えている。誰かに認められないと、辛い、苦しい、生きていけない、というような、ネガティブな感情や行動として出る場合が多いと思っている。だから、実はそれこそが承認欲求なのだが、本人がそれを承認欲求って認識してない場合もあるのではないか、そう想像する。しかし、人の評価で苦しい、足がすくむ、それも承認欲求だろう。だから、積極的にガシガシ行動する、というよりも、なんか、怖くて、とか、なんだか見っともなくて、うまく行動できない、というように表出される場合も出てきたりする。

実は、承認欲求とは、人間の心の中に時限爆弾のように絶対に埋め込まれている衝動装置だと思う。社会という集団での生存方法を選んだ人類にとって、個人個人の中に、他人に認められたい、という感情を埋め込むのは、社会が社会として成立するのに都合が良いと思える。自らを思う時、個人が大事だと思いたい気持ちが湧くが、社会を形作ると選んだ生き物としての人間にとっては、その社会こそが大事であり、最小単位で、個人はそれを構成する細胞や歯車の一つに過ぎない。個人とは、1個だけでは大して重要ではない。集団を維持し、進行させる構成員としてだけ、大事にされるだけだ。そして、そんな中で、仕方なく、私達の中には、自分の中には、抗うことが出来ない形で、承認欲求という感情が存在する。どんなにクールに決めていても、必ずそれはあって、いつか顔を出す瞬間が訪れる。別の言葉で言うなら、自分の中には、承認欲求のお化けが眠っている。それは、時には、行動に繋がって、何かしらの結果をもたらすし、また時には、自分を苦しめて、行動を制限する。心の病にまで繋がったりもする場合もあるだろう。しかし、それはもうしょうがなく、あるのだ、人間には、誰の中にも、絶対に。だってそれが、それこそが、社会が社会として成立し、社会を動かす原動力の一つなのだから。

って思って、頑張ってその感情から距離を置いて見る時、何か、うまく、この社会でやっていくヒントが見えてくると思っている。知ることは重要だ。苦しめているものの正体が見えれば、だからってすぐに解消って訳にもいかないが、今苦しい中ででも、今後の為に何か作戦が立てられそうだ。

自分の中の、承認欲求というお化け、仕方なく存在するやつ、爆発力があって、時に自分を飛躍させる場合もあるが、爆発力が強いから自らも傷つけかねない、やっかいなやつ、それとどう付き合っていくか、付き合い続けるか、一度一回客観的に見つめ、考えておきたい。長堀


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