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⑥大学生時代~ひとり暮し~

高校を出たら家業を継ぐつもりで工業高校に入学した。
中3の担任の先生は「普通高校に行って、大学で工業系に進んだ方がいい」と勧めてくれたが当時は高校を出たら働くという方が一般的だった(と思う)しかもうちの場合、夜遅くまで働いている姿を小さい頃から毎日みてきたので「少しでも早く、両親を楽にさせてあげたい」という殊勝な気持ちもあった。

父は仕事着のまま、夕食を食べ、たぶん12時過ぎまで働いていた。
入浴後に一杯やってくつろでいる姿なんてみたこともなかった。

(今、うちの息子達はほとんど晩酌したり、バンドの練習に行ったり、呑みに出かける父親を見てどう感じてるのだろう?)

が、高3のいつ頃だったのか、部活の先生の権力(?)があったのだろう、大学を推薦してくれるという。勿論バスケット部に入部するという条件つきだが。

しかし、「もうバスケットはやりたくありません」と答えるとあっさり他の大学を推薦してくれ、親からも「大学に行きなさい」と説得され、自分ももっと遊びたいというとても不純な動機から大学生活をおくることになった。

もうひとつの理由として、僕にはトラウマ?のようなものがあった。
僕には知恵が遅れた弟がいるのだが、何かというと母は「〇〇は(弟)これしか楽しみがない」「ふたりのうち、どちらが知恵遅れになっていたかわからない」などと言われ続けた。
なのでとは言わないが、ふとした時に「自分はこんなに楽しんでいていいのか?」「自分だけこんなに幸せでいいのだろうか?」とうしろめたく感じてしまうのだ。
少なくとも、ものすごく喜んだり、楽しんでいるのに相手には伝わりにくいようなところがあると思う。
後に母に「僕は小さい時、こんなに(母が弟に接するように)可愛がってもらった?」と僕に聞かれた時は反省したと言っていたが・・・
まぁ、そういうこともあって、家を出たくなったのだ。

初めは学校から勧められた「先生の家に下宿」をすることになった。
食事を一番心配していた母は「朝食、夕食付」という、しかも監視つきのような状態が気に入り、お金を出してもらう僕としては「一人暮らしがしたい」と反抗することもできなかった。   

いざ行ってみると・・・ 家の間取りはハガキに簡単な図で台所、6帖、4畳半とか書いてあったのでわからなかったが、部屋はふすまで仕切られていた。しかも、トイレに行くときみんな僕の部屋を通る、通らないとトイレにいけないのだ。

これはすごいでしょ!!!

蛇が出た部屋もあった。毎日晩酌されてる先生は奥さんと喧嘩ばかりしてた。学校の寮の方が厳しかったとは思うがとても描いていた生活とは違った。

さすがに挨拶に来た母親もびっくりしていた。
2人で寝ているとこを「ごめん、トイレ」とみんなが通っていくのだ。

「学校の近くはたまり場になるからやめなさい」とか言っていた母だが先生の家といえども「これは・・・」と思ったのだろう。

あっさり下宿を出るOKがでた。
先生いつものように酔っ払って母の事をなんだかんだ言っていたがそういうのも原因だったようだ。

先生の奥さんにその旨話すと「こんなに早く出たいなんて言った人は初めてです」なんて結構怒られたが、気にせず僕は新しい住居を探し始めた。

バスで通うというのも面倒くさかったし、近くの銭湯には刺青をいれてる人が多いのも正直嫌だった。
授業だって続けてあるわけじゃないし、その間ちょっと下宿に帰るってこともできない。
午後からの授業の日だって朝早くから庭掃除で起こされる。
(庭掃除は下宿人の仕事のひとつだったのだ)

マージャンだって毛布をかけてなるべく音が出ないように工夫してやっていた。

「新しい下宿先なんてこんな時期にありませんよ」と先生の奥さんに言われていたがあっさり見つかった。
運がいいことに入学時に完成が間に合わなかったアパートがあったのだ。
しかも学生専用。
学校にも、商店街や銭湯にも近く、しかも新築という絶好の条件だった。

部屋は3畳×2、4.5畳×3、6畳×2(計7部屋です)とあり廊下をはさんでわかれていて部屋にはドアもあり鍵もある。

共同トイレはふたつあり、手洗い場兼流し台もあった。

「6畳にしなさい」と言ってくれた母に「3畳でいい」と答えて即決した。

個室というだけで3畳で十分だったのだ。

そうして新しい僕の生活が始まった。

マカロニほうれん荘みたいな新しいアパートの初代メンバー