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⑫キャメルキャラメル~はじめての録音&POPCON~

「卒業したら家業を継ぎます」と言っていた僕は、結局、親との約束を反故にして故郷には戻らない決断ををした。
キャメルキャラメルのバンド活動をしたいが為にだ。
僕が息子にやられたらショックだろうなぁ。親もまだ若かったから許してくれたんだろうけど。

とりあえず、アパートとバイトを探した。

E波というH市の中心街から離れた場所にある木造の古いアパートに住むことになった。 ふらっと入った不動産屋のおばあさんが勧めてくれ、小学校の隣で、日当たりもよく、ドアをあけると板の間の右側にトイレ、左側に炊事場、その奥に3畳間、さらにその奥に6畳間と押入れがあった。

おばあさんも、アパートに住んでる、小さい赤ちゃんをおんぶして洗濯している大家さんも感じがよかったというのも大きな決め手になった。

バイトは弁当配達にした。食費がうくかなと思って。 実際、おかずをもらって帰ったし、昼も勿論食べさせてくれた。

いろいろある弁当屋さんから僕が選んだのは「H・フーズ」という会社。 アットホームな感じで、社長さんは障害のある子供達の施設におにぎりを届けるような人だったし、息子さんの専務も飄々として僕は好きだった。

パートにきているおばさん達にもかわいがってもらって、特に息子さんが「東京で俳優をめざして頑張っている」というY下さんはよく「焼肉食べに行こう」と誘ってくれた。

Y下さんの息子さん俳優になれたかなぁ? Y下さんの友人、Kさんもどうしてるかな? あんなに優しくしてくれた人達を想い出すと音信不通になってる今の状況に胸が痛む。

朝起きて、弁当配達して、バンドの練習して、たまに彼女と会って、ある意味、本当の一人暮らしが始まった。
***
結成してからはひたすら練習。確か、何曲かJ-POPをコピーしたはずだが、竹内まりやさんの「ドリーム・オブ・ユー〜レモンライムの青い風〜」しか思い出せない。
この曲アレンジもかっこいいし、いい曲だな…

 レパートリーも増えて、30分くらいのステージが余裕で?できるようになった9月に、某Y社のラボルームコンサートというのに出演した。
今でいう、オムニバスのアマチュアLIVE。
10月には市民音楽祭。11月は大学祭2本。
そして、12月にはなぜかわからないが(たぶんバンド数合わせ)CBSソニーオーディションに出ている。
 この時、村下孝蔵さんが受賞したと思う。歌もギターも上手だったし、曲もわりと好きだったけど、(たしか松山行きフェリー)バンドサウンド指向だった僕は弾き語りに興味があんまりなかった。
なんで、いきなりこんなにLIVEができたのか、とりあえず今、Rちゃんが書いてくれてた予定表をみてびっくりしてる。

むむむ( ^ω^)・・・結構なハードスケジュールです

 そして翌年1980年に「キャメル・キャラメル」で初めてPOPCONに出場した。
女性ヴォーカリストのバンドを結成した時の為に、当時つきあっていた彼女に詩を書いてもらい、卑〇〇のメンバーに補詩をしてもらい、僕が作曲した。
「Just Coll On My Name」という曲だ。

まずは楽器店でコンテストがありそれに参加する。POPCONはオリジナル曲のみ参加資格がある。

そこで選ばれると〇〇楽器店代表でもう少し広い地区のコンテスト(当時の資料だと県大会尾道にて)に出て、また選ばれれば中国本選会に出場という流れだったと思う。

 一方で作詞作曲はするが自演はしないという人達がいる。

そういう人達は「きままなコンテスト」という2~3ヶ月に1回くらいのコンテストに応募する。

選ばれた曲はヤマハのスタッフがプロデュースしてくれ曲を仕上げて演奏してくれる。演奏するメンバーはほとんどが講師陣だから、唄もうまいし、演奏も上手。嬉しかっただろうと思う。

 作詞集みたいな小冊子も配られていて「曲は書けるんだけど詩はどうも苦手」みたいな人は重宝したし、そこで恋も芽生えたりするのかな?

 とにかくこうしてふるいにかけられていき中国本選会(のちに中国四国本選会になる)にエントリーされることになった自演組と作詞作曲者組はヤマハのスタジオでクリニックを兼ねた録音をしてもらえるのだ。

 僕達は1回目の出場で運よく中国本選会にエントリーすることができた。
中国本選会にエントリーすることになった僕達に、ある日「○日○時にY社音楽振興会に来てください」という連絡があった。

なんと「レコーディングをします」ということだった。

僕達にとって初めての経験だった。

 当日、僕達は、何度か練習したことがある、ヤマハの庚午センターに集合した。

笑顔で迎えてくれたディレクターのI葉さんの案内でいつも練習しているスタジオの奥に進んで行くと、重厚な扉が見えた。その重い扉をあけると「うわぁ、こんなとこがあったのか」とびっくりするような本格的なスタジオがあった。

ドラムセットもグレードが高いものだったし(YDー9000)マイクが何本もたっていて、衝立があって(音がかぶらないように)、グランドピアノもあるし、ガラス窓の向こうにはミキサー室が見えて多くの録音機材が見え、スタッフがなにやらむずかしい顔をして作業してる。

びびりました…

 ひととおり説明を受けた後、チューニングを終えると「じゃあ、そこのヘッドフォンをつけて待っていて」とI葉さんはスタジオを出てミキサー室へ入っていった。

まず、こんな立派なヘッドフォンを着けたのも初めて。

すると、「みんな聞こえるかな?聞こえたら返事して」

ふむふむ、むこうの声はヘッドホンをとおしてしか聞こえないけどこちらの声はマイクを通してむこうに丸聞こえなんだ。

「はい、K田君バスドラ叩いて」というのでバスドラ、ドンドンと叩く。

「はい、じゃぁフロアタム叩いて、次タムの大きい方・・・」と続き「じゃあ全体でリズム下さい」という感じでドラムの音つくりは終了。

それから各パートも同様に音を作っていった。

そしていよいよ「それでは1回演奏して下さい」という声がかかった。

何度も何度も練習した曲だがなんかいつものように演奏できない。

で、演奏が終るとなにやらガラス窓の向こうで話していて(ヘッドフォンからは聞こえないようにしているから)感じが悪い。というか不安になる。

 するとI葉さんが録音室に入ってきて「ここはこうしたらどう?」とかいろいろアイデアを出してくれた。それはとても新鮮だった。


 そうして、やっとという感じで、なんとか録音が終わったときは疲労感もあったが、ものすごい充実感もあった!

演奏したばかりの曲を録音ブースで聴かせて貰った。

僕達にとっては記念すべき音源。いつものカセットで録音したのとは段違い。
音質は勿論、すべてが違っていて、まるで「僕達はこんなに上手いのか?」と錯覚してしまった。
錯覚した音源がこれ 

https://www.youtube.com/watch?v=8gS56iGt8dk


 この時、ミキサーをしてくれたエンジニアがM上さんとアシスタントのDちゃん。
M上さんはもの静かで穏やかだけど情熱を持った方です。

Dちゃんは曲者風。あくまで見た目だけど。ナイスガイです。

ふたりにはその後、何度か録音して頂くことになったが、数年後「キャメル・キャラメル」が解散するとき、「LIVEで解散もいいけど、録音もしないか?」と提案してくれ自主レコードを作ることになり、M上さんは無償でエンジニアをやってくれた。

さらに、「キャメル・キャラメル」の録音をしてくれた曲を1本のテープにして(日付まで書いてくれたありました)プレゼントしてくれ、それは今デジタル化して僕の大事なCDの1枚になっている。

 何年か後に、M上さんがY社をやめ、音響関係の会社を立ち上げる時には「一緒にやらないか?ドラム教室も続けられるようにするよ」とまで言ってくれた。

家庭の事情がなければ「ありがとうございます。是非お願いします」と即答してだろう。

まぁとにかく、無事に初経験の録音も終わり、キャメル・キャラメル本格的に始動って感じとなった。

記念にパチリ