デリディアンのエビデンス主義者批判

はじめに

『現代思想 2021年6月号 特集=いまなぜポストモダンか』を、まだちまちま読んでおります。今回検討するのは、デリダ研究者・小川歩人さんの論文「ポストモダンという毒/薬あるいはサプリメントの略歴――今日、ジャック・デリダを支点として」です。まず全体の雰囲気を紹介すると。「ポストモダン」批判者は、雑で通俗的な藁人形批判をしている。デリダはそんなこと言ってない。……このような論調になっています。この論旨自体は、「ポストモダン」批判者が大いに反省すべき指摘と考えます。

本記事が問題とするのは、小川さんによる終盤の"提案"です。通俗的なポストモダン批判者は、「真理」や「ファクト」「エビデンス」なるものに病的フェティシズムを抱えている。そしてある種の科学的問題は、もっと複雑である。このように小川さんは指摘しています。

要するに、"エビデンス主義者" "エビデンス厨"のようなものを、仮想敵に据えています。

なぜ小川さんは、エビデンス主義者を批判対象としたのか

まず具体的に、先述した文脈における小川さんの、「「ポストトゥルース」の批判者」への批判を引用します。文脈を十分汲むために、かなり長いです。

論拠の検討も十分にできないために何に反論したらいいのかもよくわからない。これでは応答自体もいっそうフェイクニュースじみてくるわけだが「ポストトゥルース」の批判者が言いたいことは「ポスト」という接頭辞の後に保持されており大変明瞭である。つまり「ポストトゥルース」ではなく「トゥルース」の価値を重視するわけである。しかし、「トゥルース」とは何か。「客観的真理」とは何なのか。デリダは真理のなかに「フェティッシュの正常な原型」を見出すべきだと述べていたが、この明瞭さは何を欲しているのか。たとえば気候変動[※ラッコ強調]を含む今日の環境課題のなかでは「質的に異なる多様なエビデンスが考慮される性質上、エビデンス・ヒエラルキーに従った一次元的な評価の適用には自ずと限界があり、エビデンスの質を相互関係の頑強さや整合性の観点から[※ラッコ強調]評価することが要請される」。客観的なエビデンスによって即、一意的な判断が下せるとは限らない。また「エビデンス」は専門家によって生産され、非専門家に理解され信用されなければ行使されないし、そのために多くの計算、尺度の検討、討議が必要とされるのである。その上で、「リスクは一瞬一瞬において、すなわち、その都度オリジナルな妥協transactionsに場を与える揺れ動くコンテクストのなかで評価され直さなければならない」し、「このことにいかなる相対主義もない」だろう。デリダは「真理が存在する」と積極的に言わなかったにせよ、「真理がなければならない」と主張していた。デリダが言っているのは「真理」、「事実」や「エビデンス」は、われわれを簡単には安心させてくれないということである。(前掲書、190-191頁)

ここで批判されているものを、"エビデンス主義者"と呼ぶことにします。「エビデンス・ヒエラルキー」でどの仮説が最も妥当なのか白黒つけられると、エビデンス主義者は考える。エビデンス・ヒエラルキーとはある仮説(治療法など)の科学的根拠の強さを判断する際の、ガイドラインとなるものです(下記画像URL)。

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まず「エビデンス・ヒエラルキー」の含意を説明します。ある見方をするとこのヒエラルキーは、特定分野の研究者にとって手厳しいものです。まず「専門家の意見」が、ヒエラルキーのかなり下の方に位置付けられています。例えば医者の経験則による診断がこれに該当します。次に、ランダム化比較試験(RCT)やメタアナリシスといったヒエラルキーの上位にある手法は、統計的な分析を必須とします。このため統計的な方法論を常用する分野が上位に来て、そうでない分野は下位に来る、という分野間のヒエラルキーをも暗に前提するわけです。

これを踏まえると、小川さんがエビデンス主義者を仮想敵としたのは、自然な反応と言えます。なぜならこのヒエラルキーを受け入れるか否かは、分野間の序列を決定する争いでもあるわけですから。ではエビデンス主義者への批判はどのくらい妥当なのでしょう。

エビデンス主義者への批判が陥る泥沼

小川さんが具体的科学事例として挙げる、「気候変動」について考えてみましょう。地球温暖化の問題は、"人為的な地球温暖化など起きていない" "証拠が乏しい"(参考)とする懐疑論者の組織的攻勢にさらされています(ナオミ・オレスケス, エリック・M・コンウェイ『世界を騙しつづける科学者たち』楽工社 2011年に詳しい)。なお「人為的気候変動は事実だが、大した問題じゃない」派はここで懐疑論者に含めません。

ひょっとすると地球温暖化に対して、懐疑論者が正しいのでしょうか。小川さんの「客観的なエビデンスによって即、一意的な判断が下せるとは限らない。」という言葉は、もしかすると懐疑論者と重なるかもしれないのです。

エビデンス主義者のような「フェティッシュ」の崇拝に陥らずに真理に近づくためには、どうすればよいのでしょう。

先程挙げた小川論文には、「EBPMからEIPMへ ―環境政策におけるエビデンスの総合的評価の必要性―」という論文が、重要な核として引用されています。

「質的に異なる多様なエビデンスが考慮される性質上、エビデンス・ヒエラルキーに従った一次元的な評価の適用には自ずと限界があり、エビデンスの質を相互関係の頑強さや整合性の観点からも評価することが要請される」

著者の3人は、気候変動問題のエビデンスを研究の一つとする科学哲学の研究者をはじめとして、気候変動や隣接分野に専門性があることが伺えます。

これを踏まえると、小川提言を展開(実践)するにあたっては2つの異なった解釈(方向性)があると思います。もっともありそうな解釈は、上記専門家並みに「気候変動」に関する専門性を身につけるべきだ、という事です。エビデンス主義者は、エビデンス・ヒエラルキーを鈍器として不適切に振り回している。しかし気候変動に関して妥当な方法論は、「EBPMからEIPMへ」論文が語る問題意識を踏まえたものであるべきだ、という事になります。

例えば,気候変動政策に関する科学的知見を総括する IPCC の評価報告書では,気候変動の原因や影響に関し,エビデンスの種類・量・質・整合性が総合的に評価されている(Mastrandrea et al.,2010).(「EBPMからEIPMへ」より)
こうしたエビデンスの質は,エビデンス・ヒエラルキーに象徴されるように,ランダム化比較試験(RCTs)を頂点に,非ランダム化試験,準実験,観察実験という順に,科学的方法論の観点から序列化される.RCT の結果は,バイアスのかかった結果を生じさせる可能性が最も低い手法であるため,エビデンスの究極の基準[※ラッコ強調]と考えられてきた(cf. Bothwell et al., 2016).ただし,こうした意味で質の高いエビデンスがいつでも取得できるとは限らない.例えば,化学物質の健康被害の推定のケースでは,政策対象となるヒト集団への有害性の直接の比較は倫理的・実践的理由により不可能である.そのため,観測データや近似系の実験データをエビデンスとして用いざるを得ないことが多い.(同上)

このように、論文「EBPMからEIPMへ」は「EBPM[Evidence-based Policy Making:エビデンスに基づく政策立案] で一般的に想定されているエビデンスの定義が狭いこと」を問題として指摘します。気候変動分野ではより包括的視点、言い換えるとより広い知識が必要というわけです。

私の疑問はまず、小川論文は誰に向けて書かれているのだろうか?ということです。小川論文を素直に読むなら、「EBPMからEIPMへ」論文が語る高度な包括的分析を行う専門性を、誰もが身に付けなければならない、という事になります。読者の多数は、気候変動の専門家ではないはずです。

もしもエビデンス主義者の信条が「RCTやメタ分析を学べ」とか「エビデンス・ヒエラルキーを受け入れろ」というものであるとしましょう。これに対して、エビデンス主義者への批判の前提、小川論文が語らなかった前提は何でしょう。「RCTやメタ分析に加えて、もっと学べ」、というものになるのではないでしょうか。これは、エビデンス主義者に対するデリディアンの優位を示したり、人文的方法論を勇気づける提案でしょうか? 私はそうではないと思います。小川さんは、デリディアンが"より強力なエビデンス主義者"と同化することを以て、エビデンス主義者への論駁としているように思えます。

これが小川提言に関する、2つの解釈のうちの一つです。つまりエビデンス主義者を叩きのめすために、エビデンス・ヒエラルキーの受容よりも高い知識のハードルを論敵に課すこと。もちろん「気候変動の原因や影響に関し,エビデンスの種類・量・質・整合性」を「総合的に評価」する事は、専門性を欠いた素人判断では出来ないでしょう。

デリディアン流に真理に接近するためには、途方も無い個別科学の専門性が必要になるとすれば、これは非現実的提案です。

もう一つの解釈は、「素人でも一般向け文献を読んで、自分の頭で慎重に考えれば、エビデンス主義者よりも真理に接近できる」というものです。本記事では論じませんが、この解釈においても、いやむしろ「事実への接近」に関しては、こちらの方が深刻な問題が生じる懸念があります。

私の代案:ほどよく権威主義者になること

難しい問題ですが、最後に批判ばかりでなく代案を示します。

実は、「途方も無い個別科学の専門性」を必要としない提案があります。「とりあえずIPCCのような科学的権威を信じましょう」という提案です。

IPCCとは、国連気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change)の略です。人為的な気候変動に関して、世界的な科学者のコンセンサスをまとめるため国連が始めた組織です(URL)。要約報告書を読むと、真っ先に「気候変動は大部分が人間活動の結果である」「過去 100 年にわたって平均気温が上昇している」旨の主張が行われています(URL)。気象庁のWebサイトにあり、日本語で読めます(URL

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小川論文で不思議なのは、まずIPCCの報告書のような権威を受け入れる、といった選択肢がないことです。

つまり「事実」や「エビデンス」といったものへの懐疑はあるが、何らかの健全な権威や仮説を信じろとの提案がない。必要な肯定がない。"「ポストトゥルース」の批判者が言いたいこと"の一つは、生命や安全を守る上で、よりマシな信念や権威を選び取ることが必要な場面がある、という事だと思います。それが例え不確かさが残るものであったとしても。

例えばコロナ禍におけるワクチン接種の是非に関して、上記のような哲学的懐疑の態度の持つ有効性が問われます。結論の先延ばしや、終わらない哲学的懐疑。それはもしかすると、「政府が言ってるからワクチン打つほうがいいだろう」という(この局面では)健全な権威の肯定よりも、人々の生命と安全にとって無益か、下手をすれば有害かもしれないのです。

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