反逆文化からネオ(?)リベラリズムへの奇妙な流れ

反逆者のネオリベ嫌い?

『闇の自己啓発』著者の一人、江永泉さんから反論をいただきました。私のこの記事への批判的応答ですね。

ゲバラのTシャツと、マーク・フィッシャーの自殺

リプライツリーになっているので、詳細は上記ツイートをクリックして読んで見て下さい。

私が書いていないこと(「お前らのような書き手に人道を云々する資格はない、お前らのようなやつ相手ならそういう書き方をしてもいい(「冷や水を浴びせてやる」くらいで十分だし、自業自得だ)」とか)を想像して作るのは、デリダとかから見るとどうなんだろう、とは思った(しかもかなり長いぞ!)。

私が注目したいのは、次の「新自由主義者」についての箇所です。

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新自由主義者、ネオリベ。文化左派にとって「ネオリベ」的であることは、立場上「死」を意味することがしばしばです。当事者が「ネオリベ」的だと自覚していない場合も、ままありますが。ネオリベの定義をどう取るかにもよりますが、国家や国家の規範(規制)に逆らって企業と市場に頼るほど、ネオリベ的になっていきます。

この点で、あらゆるものに反逆する文化はネオリベと半分接しているわけなんですよね。「ネオリベ」になる危険があるということです。

そして『闇の自己啓発』での江永さんの発言を取り出すと、かなり大々的に色んな規範に反逆されてるんですよね。

江永:[…中略…]いまの苦しみの原因が、私の自由意志や血統のみならず、制度や環境にもあるのだとすれば、なぜこんなものが生じたのだ、という問いを向ける対象はもっと広がる。たとえば、「家制度なんて」「社会なんて」「国家なんて」「人類なんて」と色々な水準で思考できるはずです。 大風呂敷を広げてみますが、「国家なんて生まれなければ良かった」はアナキズム(無政府主義)で、アナキストには自然発生的な共同体や親密圏を理想視する余地があります。「社会なんて生まれなければ良かった」は―――市民社会、公共圏などの方が適切な語でしょうか――国家主義や家族主義で、ある種のファミリーが理想になる。また、「家制度なんて生まれなければ良かった」なら、血族や縁故なしで運営される共同体が目指され、たとえば理念に忠実な市民社会やイデオロギーで団結した国家、あるいは、それらとは別に、市場や都会(匿名者がその場限りのマッチングを繰り返すような場)などが、理想郷と目されるでしょう(宗教者や科学者は己たちのみの集団を理想視するかもしれません。ですが、話が際限なく拡がるので止めます。) 資本主義がなすプロセスの加速と人間という枠の解体という点での加速主義は、国家へも市民社会へも家族へも部族へも、また人間のみがプレイヤーであるような市場へも絶望した上で、なおユートピアを志向するための、思潮(情念や妄想と呼んでもよいでしょうが)のひとつとして分析できるように思われます。(『闇の自己啓発』261-262頁)

この中では「市場」も反逆対象に含まれています。(それとも単なる「懐疑」でしょうか。私も含め、懐疑だけなら色んな人がしていると思いますが)

しかし江永さんは下記のように、あらゆる規範に反逆しつつ、その反逆イデオロギーが出版社の販促をやる事にも繋がっているわけです。まあこの事は、「ゲバラのTシャツと、マーク・フィッシャーの自殺」で既に書きました。

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つまり規範への反逆と、企業経済への包摂がここでは同時に起きている。簡単に言うと「矛盾」が起きているわけですね。市場に逆らうと言いつつも、逆らいきれず企業に従ってもいる。

恐らくこの流れや矛盾は、音楽業界から書籍業界まで一般に見られる現象ではないでしょうか。

色んな社会規範に反逆する⇒ 文化産業が仕事とスポットライトを浴びる場を与える。⇒ 企業経済に包摂される。⇒ ヌルいといわれる。(=ラディカルではないと指摘される。)

まあつまり、メジャーになって文化産業や企業とウィンウィンの関係になるほど、「ヌルくなった」と言われてしまう。

私が思うに、ここでは色んな規範に反逆するラディカリズムを論理一貫させるのは、無理がある事が示されています。例えば上記のように、(本人にとって)いい企業活動や企業規範もあるのだと。ヌルくなっていいんだと。

国家も使いようで、年金貰えると嬉しいですしね(「年金払うべし」という規範の恩恵)。これは色んな規範に言えます。赤信号で待つことも規範ですが、基本的に待った方がいいでしょう。「狼の自由は、羊にとって死を意味する」という言葉がありますが、規範って人を抑圧する以外に、人を守る機能もあるんですよ。もしも企業経済に包摂される一方で、それ以外の様々な制度・規範・規制に反逆するならば、それは「ネオリベ」に近づく。

記号的ラディカリズムの問題点

もう一つの大きな問題は、反逆文化の人々が無自覚か自覚的にか、しばしば「記号的にラディカルなこと」が勝ちになるゲームに熱中することです。メンコみたいなもんですね。「どちらがラディカルかメンコ」。言い換えるとどちらがどれだけいろんな規範に逆らえるかを競っている。過激に見えるほど、アテンション・エコノミー(注目や関心を集めるゲーム)上の富を得られもします。その点では、墓の上に乗るYoutuberと似た環境ではあります。(「理想」が同類と言っているわけではありません)

1日、男は墓石の上に乗り、手に持った卒塔婆を振り回しながら「死んで当然じゃお前ら! 生き返りてぇか!」「生き返り生き返り! ベホイミベホイミ!」「不謹慎ユーチューバーナンバーワン!」と奇声をあげながら暴れる動画を投稿。これにより、墓に対して敬意を欠いた行動をしたとして礼拝所不敬罪の疑いで逮捕された。(https://sirabee.com/2020/12/10/20162467146/

このメンコゲームの問題は、ラディカルじゃないほうを下に見ていい、ラディカルじゃないと価値がないとしばしばされてしまう事です。だから「改良主義」は価値が劣る。ヌルいリベラルは価値が劣る。

私はこのルールがナンセンスだと思っており、『闇の自己啓発』に抱く不満の主要な原因でもあります。(パフォーマンスで政治家を選ぶことが空虚ならば、言論や思想にも似たことが言えるはず)

記号的ラディカリズムの問題点は、別の記事で色々語ろうかなと思っています。

ひとまず一言。反逆者自身が矛盾にぶつかってしまうゲームをずっと続けていくことは可能でしょうか?

【追記】

私からお願いをしますと、「とにかくこうした問題を真剣に考えて欲しい」です。なので下記のようなより力があり、名の通った思想家の文書を検討するのもいいのではないでしょうか。

ジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター「カウンターカルチャーはシステムへの脅威ではなく…システムそのものだとしたら?:『反逆の神話』フランス語新版発売記念インタビュー」(2020年3月4日) https://note.com/ware_bluefield/n/nf9654689ba44

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