ゲバラのTシャツと、マーク・フィッシャーの自殺

ゲバラのTシャツ現象

書籍『闇の自己啓発』のマーケティング手法に、「ちょっとやりすぎなんじゃない?」と物申す記事を書いてしばらくたった頃。

『闇の自己啓発』の異常者マーケティングがうざい件について:でも「ほとんど無害」 https://note.com/rakkoblog/n/n762dff7cb61e

書店に行くと色んな本に、「闇の読書会」という黒いラベルが貼ってあったんですよね。

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https://twitter.com/kikuya_kokura/status/1387299136043577345

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https://twitter.com/akirams/status/1385395686183604227

『闇の自己啓発』著者がPR。

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このnoteでも、早川書房さんが仲介して読者を広げる活動をやっています。読書会を活発にして読者層を増やす。『闇の自己啓発』著者たちは、こうしたマーケティング(販促)活動の要員になっています。

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https://note.com/imuziagane/n/n9123acc09bec

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『闇の自己啓発』。でもさ、企業や生産性に反逆せよって本じゃなかったですか?

 世間や企業、集団は「自己」を嫌う。とにかく上の言うことに逆らうなと、個人の思考や批評精神を封じる方向に動く。その波に押し流されてしまうと、個人はいつしか考えることをやめて、世間を構成する大波の一部になってしまう。さながら、押井守監督の映画『イノセンス』に登場する、「人形」に変えられ、自我を、自己を失っていった少女たちのように。そして我々個人がその思考力を奪われ、「人形」にされてしまうと、大きな存在はますます大きくなり、誰も批判できない存在になってしまう。 そんなビッグブラザーの支配する世の中で、自己を奪われないためには何をすればよいのか。私は読書会こそがその答えであると思う。(『闇の自己啓発』役所 暁 "まえがき")
木澤:[…中略…]折しも、日本においても杉田水脈議員によるLGBT差別的な「生産性」発言に始まり、相模原障害者施設殺傷事件の犯人、植松聖死刑囚の「生産性のない人間は生きる価値がない」という思想、そして直近の事例ではALS(筋萎縮性側索硬化症)女性の殺害事件など、「(再)生産性の信仰」は不可視の空気のように現代社会に深く根ざしています。[…中略…]以上に見てきたように、クィア理論における「アンチソーシャル的転回」は、同性婚などの権利やパートナーシップ制度といった社会改良主義的=再生産的未来主義的な戦略=連帯に対しても真っ向から背を向けるという点で、正しく「反社会的」かつ本来的な意味における「ラディカル」と言えるでしょう。(『闇の自己啓発』317-318頁)

チェ・ゲバラの顔がプリントされたTシャツかよ。

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いいのかよ。それで。本当にいいのかよ。

私は、文句はありません。

もしも「そんなもんだろ」と分かって関係者や読者の皆さんが楽しまれているのなら、あまり文句はありません。本記事で自分なりの指摘をしたら、水に流してことはそれでおしまいです。このスタンスは以前、執筆者の一人である木澤さんにもお伝えしました。

『闇の自己啓発』の宣伝時、"この本には、資本主義が押しつけてくる規範に反逆する意義がある。悪しき文化をハッキングしている"。そんなふうに私には見えた宣伝方法に、おかしいと感じたのでした。

「そんな意図はない。お前の勘違いだ」、というならば謝罪するしかありません。実際、自発的に宣伝されていた樋口さんとブログ記事を介して会話した時。半分くらいは私の勘違いだったのかな、と了解しました。つまり樋口さんには、「みんなちゃんと異質な自分のまま生きていこう」という考えを広めたいとの動機があった。対して私は「資本主義への反逆」というもっと異常なものを、宣伝する人々へと投影していた。

資本主義おたくなので、何を見ても資本主義に見えてしまう。

樋口さん、その節はすみませんでした。

悪いなと思った私はフォロワーさんに『闇の自己啓発』を一冊買って、消費活動と宣伝を手伝うためプレゼントしました。だから『闇の自己啓発』の存在意義を否定する気はありません。同書によりいろいろな珍しい思想や考え方、コンテンツを知り、楽しむことができます。今でも何か宣伝協力できることがあったら手伝いますよ。

それはそれとして、最近ようやく分かったこと。

要するに反逆文化とは、何より「自己表現」でもある、ということです。かつての政治革命家ならば、体制に一撃を与えられないことは敗北です。だからテロで人を殺しさえした。他者はそこで、生命を奪う必要がある敵として現れました。

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しかし反逆文化では、常に自己表現が一定の満足をもたらします。それは作者もそうだし、反逆の思想に賛同する読者もそうです。「敵」は構図としてあればよく、命まで奪う必要はない。企業にとって富をもたらす反逆文化は、反逆者にとってはアテンション・エコノミー(注目や関心を集めるゲーム)上の富をもたらします。だから反逆者が企業の販促要員となることさえできる。

ここが、例えばかつての極左テロと、反逆文化の違いです。

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自殺したり、人を殺さずに済むなら、いいことだと思います。その上で、社会の抑圧に怒るあまりに[そんなことのために]人を殺したり、自分を殺さざるを得なかった人間についても語りたい。それによって、反逆文化の意味を別角度から照らしたいと思います。

マーク・フィッシャーの絶望

マーク・フィッシャーは、文化左派に人気のあるイギリスの批評家です。

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フィッシャーは"反逆"の身振りと、文化産業とが好んで癒着するからくりを見抜いていました。経済学の言葉で表せば、資本主義の「市場化」の力は、「反資本主義」というミームさえ商品化するということです。

フィッシャーによると、まず体制による文化の包摂と抵抗があった。しかし現状はその先の段階にある。反逆の身振りと包摂は繰り返されて、PDCAを回す末に「テンプレ」化した。"反逆"の文化は、企業に富をもたらす設備装置となった。何より消費者が「反逆」を好むことを、企業はわかっている。それをつくってきたのが企業だからだ。

フィッシャーにとっては絶望するしかない事態でした。

[…中略…]それでもなお、転用〔détournement〕と回復、体制転覆と体制への包摂をめぐるあの旧い闘いは、もう闘い尽くされてしまったように思われる。今の私たちは、かつて体制転覆の力をもつとされた題材の包摂(インコーポレイション)ではなく、そのプレ・コーポレイション、つまり、資本主義文化による欲望、期待、そして希望の先制的なフォーマット化および形成化に直面しているのだ。例えば、従来的な反逆や抵抗の身振りをひっきりなしに、しかも、まるで初めてのように繰り返し続ける「オルタナティヴ文化」や「インディペンデント文化」といった安定した領域の確立をみてみよう。「オルタナティヴ」や「インディペンデント」なるものは、メインストリーム文化の外部にある何かを指すのではない。それらはむしろ、メインストリームに従属したスタイルというばかりか、その中で最も支配的なスタイルにすらなっているわけだ。[…中略…]
ポストモダン文化について一般的にも言えるように、コバーンは、「様式の革新がもはや不可能となった世界、過ぎ去った様式の模倣と、想像の博物館の中にあるいくつもの様式という仮面と声を通してしか語ることのできない世界」に立たせられていた。そこにあっては、成功さえもが失敗を意味した。というのも、成功することとは、システムを肥やす新しいエサになることにすぎないからだ。(マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』堀之内出版 2018年 26-28頁)

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引用した『闇の自己啓発』の冒頭の、役所暁さんの言葉と比べてみるのもいいですね。

世間や企業、集団は「自己」を嫌う。とにかく上の言うことに逆らうなと、個人の思考や批評精神を封じる方向に動く。[…中略…]自己を奪われないためには何をすればよいのか。私は読書会こそがその答えであると思う。(『闇の自己啓発』役所 暁 "まえがき")

体制に逆らって、自分らしくあれ。自分らしくあること。自己を表現せよ。フィッシャーのような考えからすると、それは反逆文化を売る企業にとって好都合な、「最も支配的なスタイル」だということです。フィッシャーによると、カート・コバーンとニルヴァーナは反逆文化のジレンマを体現し、苦闘したそうです。

MTVへの批判ほど、MTVの視聴率を上げるものはないということを知り、そんな彼の身振りはすべて予め決定された台本に従うクリシェに過ぎない、という自覚をもつことですら、陳腐なクリシェに過ぎないのだと、コバーンは全てわかっていた。[…中略…]ともかくも、コバーンとニルヴァーナが抱えた激しい存在論的不安は、今や過去のものとなった。彼らを継承して現れたのは、不安を感じずに過去の形式を再生産する、パスティッシュ・ロックなのだ。(フィッシャー/前掲書、28頁)

反逆の文化によって「この仕組みの深さ」を破壊する方法には、欺瞞がつきまとう。この方法は、きっとどこかがおかしい。

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ですが読者とファンに、書籍文化や音楽や映画が楽しさや福利をもたらしていることは、忘れるべきではありません。欺瞞をあまり大きく非難するなら、それも公平ではない。

フィッシャー自身は、鬱病を抱えて自殺しました。フィッシャーは自己表現のもたらす成功では、生を継続出来なかった。彼のことはあまり知りませんが、なぜなのかは気になります。誰か教えて下さい。

「反逆の文化って、究極的にはどんな意義があるの?」という問いに、我々はそろそろ答えを出す必要があるでしょう。それとも、フィッシャーの絶望が全てなのでしょうか。

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