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ジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター「カウンターカルチャーはシステムへの脅威ではなく…システムそのものだとしたら?:『反逆の神話』フランス語新版発売記念インタビュー」(2020年3月4日)

〔訳注:最初に。本エントリは、『反逆の神話』のフランス語新版の刊行を記念して、フランスメディアによって行われた、ジョセフ・ヒース&アンドルー・ポターへのインタビュー記事の翻訳である。訳者(WARE_bulefield)フランス語に堪能でない為、基本的に意訳となっている。インタビュー内容は、ポターとヒースの過去の執筆記事や別のインタビュー記事と重複しているものが多く、本意の8割以上は翻訳できていると思われるが、あくまでも意訳であることを留意して読んでいただけると幸いである。〕

Et si la contre-culture n'était pas une menace pour le système... mais le système lui-même ?
Propos recueillis par Mikaël Faujour

記事執筆&インタビュー:ミカエル・フォージュール

カナダ人アンドルー・ポターとジョセフ・ヒースによる著作『反逆の神話』は、2005年にフランス語版が出た後、長らく絶版になっていたが、L'échappée社は、新しい序文を追加した新版を、近々出版する予定だ。この本は、左派が模索してきた「オルタナティブ」が、いかに誤謬に満ちてきたかについて論駁を加えている。

一般的な価値観では「カウンターカルチャーは資本主義に対抗している」とされている、しかしこれは事実でなく、逆に「資本主義の原動力になっている」としたら? これこそ、『反逆の神話』の著者、ジョセフ・ヒースとアンドルー・ポターが主張している内容である。

以下、2人のカナダ人へのインタビューである。

質問者ミカエル・フォージュール(以下Q):この本がアメリカで出てから16年経ちます。当時、分析されていた、「反抗的」「クール」「不順応」な態度は、今でも存在しているのでしょうか?

アンドルー・ポター&ジョセフ・ヒース:「消費主義は順応である」という考えは、一定の衰退が見られますね。反抗的な態度でさえも、魅力の一端を失っている、少なくとも「反抗は政治的に真剣な態度である」との幻想は失われてしまったように思えます。今の若者達は、前の世代よりはるかに虚無的に見えます。「エッジ(尖ってる・中二病)」とか「エッジロード(中二病の王)」[編集部注:意図的に風変わりな態度や外見をする人や行為を表すスラング]といった言葉は、古臭い「反逆者」的態度を取る人への侮蔑言葉として使用されています。なので、今の若者は、資本主義の有り様を昔と同じように見ているとは思えませんね。

我々の分析によるなら、反抗的な反消費主義活動は、何十年にも渡って長く行われてきたヴェブレン的な顕示的行動[編集部注:アメリカの経済学者、ソースタイン・ヴェブレンが提唱した人は他者との見栄を張り合いで消費行動等取る「顕示的消費」の考え方]の、最新パターンに過ぎませんでした。様々な消費活動は〔体制・資本への順応であるとの理由で〕糾弾されましたが、これは、安っぽく隠された社会的地位の獲得動機に基づいていました。こうして糾弾されることで、消費活動は、より手が込んで洗練されたものに置き換わっていきました。我々は、ヴェブレン的本能が消え去ることはないと思っているので、過去の顕示的行動がどこに移動したかを観察するのは有益でしょう。今現在、ヴェブレン的顕示衝動の大部分は、道徳的糾弾、キャンセルカルチャーといった形となって、〔過去のリベラルの活動から〕地続きの世界へと移行してるように見えますね。こういった活動は、『反逆の神話』で扱っている「極端な反抗」の力学と非常に似通っています。

Q:つまり、カウンターカルチャーの価値観は、結果的にミルトン・フリードマンの「自生的秩序」や、アイン・ランドのリバタリアニズムに近接してしまうのですね。なぜ、カウンターカルチャーの活動家達は、社会主義的な革命よりも、自由主義や、リバタリアン的個人主義に寄与してしまうのでしょう?

カウンターカルチャー思想の中心になっている考えで、最も欺瞞的かつ見当違いな考え方は、「ルールに従うことは、本能を抑圧する行動である」との考え方です。この考えは、ジークムント・フロイトが『文化への不満』(1930)で定式化しています。
「文化に従うことは本能の一部を売り渡すことに他ならない。現在社会の悲劇性の一端は、こうして個人が文化に順応することで、複合体に従属してしまっていることにある」と。
このフロイトの思想を政治的実践として解釈すれば、「ルールの押し付けへの抵抗は、どんな行動であっても、その行動自体をもってして、解放的もしくは革命的となる」ということになります。こういった、破壊性・不順応性を中核にして組織化された政策は、資本主義や社会主義と両立するでしょうか? 答えは明らかでしょう。これは、経済を社会主義的に構造化する際に、明らかに障壁となります。社会主義的な構造化には、より多くの組織化プロセスと、皆の親社会的な動機を必要としています。

Q:アメリカの大学で観察される、「進歩的」狂信主義は、どこまでが、社会のルールや規範、共通の価値観を拒絶するカウンターカルチャー思想として考えることができるのでしょうか?

アメリカの大学事情は複雑怪奇です。進歩的左派は、カウンターカルチャーの教義「ルールへの不順応を」明らかに放棄しています。左派が作り出した新しい政治空間では、「過度に抑圧的」「非常に厳格」「偏執的なまでの礼儀作法」に焦点が合わせられています。この礼儀作法は、「私は抑圧されている」と主張するマイノリティのご機嫌を取ることを目的としています。一方同時に、左派は、象徴的・文化的な政策に執拗に拘っています。アメリカ政府は文字通り崩壊しつつあります(行政府は、立法府に完全に不信感を抱いており、立法府への文書の引き渡しや、活動内容への質問の回答を拒否しています)。なのに、学生は、信じられないほど「アイデンティティ・ポリティクス」に熱狂しているのです。

Q:「カウンターカルチャーは、社会主義に取って代わって、急進的政治運動の基礎となった」とあなた方は書いています。2016年の、ヒラリー・クリントンの大統領選挙時の「ガラスの天井を打ち破る」戦略や、「ウォール街を選挙せよ」運動の失敗には、カウンターカルチャー的誤謬が影響を及ぼししたのでしょうか?

『反逆の神話』のフランス語新版の序文でも触れましたが、アメリカで右派のカウンターカルチャーが台頭したことは、「反消費主義」からの移行における最も大きな進捗でしょう。これを抜きにして、今のアメリカの状況を正確に説明することはできません。簡略化して説明すると、左派の大部分が、「ルールを守るのは好ましい」との場所に帰着してしまったのです。特に「ポリティクス・コレクトネス(政治的正しさ)と呼ばれているルールは、ほとんど狂信的なレベルでの一連の言語コードの押し付けを伴っています。この狂信性は、ソーシャルメディア(SNS)によって増幅されています。一個人が、ルール違反や侵害を、他者や公共に「通報」し、それによって個人が自身の社会地位を高めることを、SNSは可能としました。これは、複雑なポリコレルールを守れば「覚醒に至る」との、密教的なダイナミズムを産むことになったのです。反抗的な気質を持つ若者の多くは、この種の「ポリティクスコレクトネス」を、敵として論理的に断定しました。これこそが、「オルト右翼」の持つ中心的な魅力となっています。前回のアメリカ大統領選挙では、ヒラリー・クリントンは明らかに「秩序を司る候補」だったのに対して、ドナルド・トランプは「混乱や混沌を司る候補」となっています。むろん、トランプは、大統領としてこの「混沌や混乱」を一貫して生み出してきました。

このオルト右翼の、理論的根拠は、彼らがネットの掲示板で頻繁に引用している、アラン・ド・ブノワや、ギヨーム・フェイのようなフランスの思想家に遡ることができます。オルト右翼の先鋭化した戦略思考で、ドナルド・トランプ由来のものはおそらくないでしょう。フェイやブノアの思想が、スティーブ・バノンや他の「右派のグラムシ主義者」の人々に浸透しているのは明らかです。さらにバノンのスローガン「政治は文化の下流」というのは、「文化を支配する者は、国家を支配する」との古臭いカウンターカルチャー思想以外、何物でもありません。

結果、無秩序を讃えた古臭いカウンターカルチャー的な態度(個人主義、ボヘミアンスタイル、虚無主義)のほとんどが、右派によって一括して採用されてしまったのです。違いは、左派の古臭いカウンターカルチャーは、「人間性の根源は善良である」との思想に基づいて新ルソー主義やニューエイジの信仰に昇華させたのに対して、右派のカウンターカルチャーは率直に言って、ニヒリズム(虚無主義)であるということです。

さらに、右派・左派のカウンターカルチャー的政策は、両者共に、国家を「無力化」させるのに非常にうまく機能するという点で、互換性があります。たとえば、気候変動になんらかの対策を取ろうと試みた場合を考えてみましょう。これには制度の構築や、国家間の協調的な行動が必要となっています。気候変動に対処しようとする人は、論理的で秩序ある政策を志向し、営為を続けねばなりません。一方、もしあなたが、気候変動への効果的な行動を阻止したいと思っているとしましょう――その場合、「無秩序」はあなたの味方になります。トランプのような、人や場面に応じて言動がコロコロ変わる人は、あなたの理想のアバターなのです。これが興味深いのは、カウンターカルチャー政治は、左派の失敗の大きな要因となっている一方で、最近の右派の成功に大きく貢献してることです。これは、社会における国家の役割について、左派と右派が、根本的に異なる2つのプロジェクトを持っていることに起因しています。

Q:フランス語新版の新しい序文の中で、あなた方は、「カウンターカルチャーは伝統的に左寄りに具現化するが、オルト右翼は過去に見られなかった具現化である」と主張しています。この矛盾は説明可能なのでしょうか?

私たちは、カウンターカルチャー的思想は右派へと移行しており、トランプへの投票は〔右派によるカウンターカルチャーの〕具現化である、と考えています。左派カウンターカルチャーへの反発からトランプに投票されたわけではない、と。これは、特に逆説的〔私達の理論が矛盾している〕わけではありません。私達の主張は「カウンターカルチャー政治は、本質的に、左派的な価値観を持っているわけではない」というものです。ルールの権威性に反抗する場合、ルールの内容によっては、右にも左にも具現化する可能性があるのです。

事例を挙げると、社会における人種差別を防止するには、主に集団生活で生じる「人間の合理的な偏見」を抑圧することで実施されます。なので、たとえば「なんらかの敵意を公に表現するのを禁止するルール」が制定されることになるのです。すると、こういったルールがあまりに厳しすぎると考える人々からすれば、ルールは「合理的に反逆する」対象となります。この観点に立てば、インターネットは、人々の発言内容を実質的にコントロールできない場所となっているので、「反体制派」の人々の集合場所となります。これが「オルト右翼」を理解するための鍵となっています。


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