「リベラル」が、抑圧や規制を支持しない人みたいな意味になっている件について

リベラルは抑圧や規制に頼らない?

結局においてわたくしは、たとえあなたがそれを欲しないにしても、あなたが天然痘からまもられるように強制せざるをえない。(バーリン『自由論2』350頁)

ネットでよく見る言説の一つが、「リベラルのくせに緊急事態宣言を支持するとは」、「リベラルのくせにポリコレや表現規制を支持するなんて」といった物言いだ。例えば社会学者の古市憲寿さんは、コロナ禍におけるリベラルの振る舞いを、次のように批判する。

しかし不思議なのは一部の「リベラル」や「左翼」だと思われていた人までが声高に「早く緊急事態宣言を出せ」とか「欧米のようにロックダウンをしろ」と主張していたことである。 日本の「緊急事態宣言」が個人に対してできるのは自粛要請。しかし主権が部分的に侵害されるのは間違いない。[…中略…] 筋金入りの国家主義者がこうした統制を歓迎するのは理解可能だ。しかし「安倍総理はヒトラーだ」などと主張し、国家主義を警戒していた人までが「緊急事態宣言」や「ロックダウン」を待望するのはなぜなのか。もしかしたら、彼らこそ「国家」を信頼していたのかも知れない。(https://www.dailyshincho.jp/article/2020/04230555/?all=1

古市さんによると、リベラルが「緊急事態宣言」「ロックダウン」を歓迎するのは理解不能だ。逆に「緊急事態宣言に異議あり」と主張する「リベラル」や「左翼」は、「思想的に筋は通っている」という。

古市さんに反論も出来るのだが、まずは「リベラルが、国家主義者や全体主義者に接近する危険はある」との方向から入っていく方が、意義が大きいかもしれない。

結論を先に述べると、リベラルはある種の自由を抑圧しても、「抑圧されたものは取るに足らない自由で、真の自由ではない」と納得することで、自由の擁護者とのイメージを保ってきた面があるのではないだろうか。このためヨソからみると混乱が生じるのである。こう論じる事になる。

バーリンの論じた二つの自由概念

自由主義者が全体主義へと至ることを、高名な政治哲学者アイザイア・バーリンも懸念した。バーリンは、歴史上の思想家たちの語る「自由liberty, freedom」には、二つの異質な成分が含まれている事に気が付いた。ひとつは、彼が「消極的自由」と呼ぶもの。もう一つが「積極的自由」と呼ぶものだ。簡単にまとめると、次のようになる。

消極的自由:他人から干渉されずに好きなことを出来ること。他人の干渉を受けない範囲が広くなるほど、自由が拡大されると考える。いわばある人に対し、どれだけの数のドアが開かれているか[*1]。一言で言えば、「~からの自由 freedom from」。(~には「他人」や「国家」が入る。)
積極的自由:ひとが自分自身の主人でありたいと願うことに関わる自由。単なる衝動的欲望に振り回されることは、真の自由ではない。真の自由は、おのれの自我を超える高次の存在や、より高い理想と同化し、こうしたものに足並みをそろえることで成し遂げられる[*2]。一言で言えば、「~への自由 freedom to」。

やや分かりにくい積極的自由について補足する。積極的自由の実現は「自己実現」や「理想の自分になること」、あるいは「特定階級や民族のための権力や利益獲得」に近いものである。具体的に、次のような例を考えてみよう。

例1.麻薬を辞めたいのに、何度捕まってもまた麻薬をやってしまう人がいる。かれは本当に自由だと言えるだろうか。誰かが強制的にかれを施設に入れて治療したとする。かれは治療によって自己コントロールを取り戻すことができた。それは実質的な自由の拡大だ。
例2.働かず、好きに海外旅行行ける金持ちと、毎日働いても生活が楽にならない貧乏人。かれらに同じだけの自由があるのだろうか。そうでないならば、金持ちから税金を多くとって、貧乏な人に分け与えるべきではないだろうか。国家は貧しい人の利益のために、強制力を行使するべきだ。それは実質的に自由が増えることだ。

こんな風に、「積極的自由」主義者のすることには、明らかに自分や他者への「強制」が含まれている。けれどかれらはそれが"抑圧"であるとは見なさない。犠牲になるものより、強制によって実現する「実質的自由」「真の自由」なるものの意義がはるかに大きい。このとき抑圧される個人の「消極的自由」は、暗に薄っぺらい自由、欺瞞的な自由、克服されるべき低い自由、などと見なされている。

政治や思想の歴史において、積極的自由の提唱者は無数にいた。ルソーやカントはリベラリズムの先駆者であった。他方で彼らは、人びとがみずからの衝動を抑えて理性的な、よりレベルの高い理想や法律に従うことで、真の自由が実現するとも考えた。

またカントは言う、「個々人がその粗野で無法な自由をまったく放棄し、しかるのちそれをふたたび、そっくりそのまま、法に依存する状態として見出すならば」、それのみが真の自由である、なぜなら、ここでの依存とは立法者として行為する自分の意志の働きなのであるから、と。自由はかくして、権威と両立しがたいどころではなく、実質的にそれと同一のものとなる。(アイザイア・バーリン『自由論2』みすず書房 1971年 348頁)

この論理に納得するならば、「緊急事態宣言」や「ロックダウン」が自由の抑圧ではないと主張する道も開かれる。人びとが、勝手気ままに外出したい欲望を慎み、政府の命令に従うこと。それは共同体の普遍的な利益になることだ。あるいは、人びとがより高い道徳的理想を実践することである。それは単なる権威への隷属とは違う。「真の自由」を実現することである。崇高な権威に一体化することが自由なのだ。反対に、ワガママに振る舞う人は自由ではなく、衝動に隷属しているだけだ――。

特定の積極的自由を受け容れた者は、このように主張できる。私はカントのような物言いは、欺瞞半分、理半分だと思う。

バーリンは論文「二つの自由概念」で、「いや、その"自由"って、もはや意味が分裂してるでしょう。概念的に区別したほうが絶対いいですよ」と突っ込みを入れた。

積極的自由は抑圧である。だが必要でもある。

重要な点だが、バーリンは積極的自由が"不要"とは考えない。消極的自由も、積極的自由も、それぞれが重要な目的となりうる。累進課税や民法の制限行為能力者制度から、男女共同参画社会基本法、ヘイトスピーチ解消法など、それが仮に誰かの「消極的自由を縮小するもの」であったとしても、特定の人々や、または多くの人々の公平さや正義の感覚にとって必要な場合がある。これらは「女性が自分らしく生きることが出来る社会」や「民族的マイノリティが自分らしく生きることができる社会」の実現といった意味で、積極的自由の概念に対応する。

他方で、男性や金持ちや日本人一般の消極的自由という基準からみれば、こうした制度は抑圧的になりうる。ご存知の通り、こうした"抑圧"的な制度や価値観は、現代のリベラル・デモクラシーの国家に不可欠と考えられている。両性の平等や差別解消が不要だと考える「リベラル」がいるだろうか?

したがって一般論としては、ひたすら積極的自由を批判し、消極的自由を擁護するような姿を、リベラルに押し付けることは出来ない(もし「安倍[元]総理はヒトラーだ」とガチで信じる人が「安倍は早く緊急事態宣言を出せ」と言ったならば、おかしいと思うけど)。リベラルも必要ならば抑圧するし、"国家に頼って"規制をかける。(それに反対する立場は、リバタリアニズムに近づく。)

バーリンは、自由主義的傾向のある歴史上の思想家でも、積極的自由実現のために、消極的自由を抑圧しようとしない人物は稀だ、との見方を示している。またそもそも純粋な消極的自由は、近代に入るまでは、世界的に殆どの人間が積極的には守ろうとしてこなかった。現代の自由民主主義者だって、戦争に勝つためなら国家による統制を欲するだろう。もっと卑近な例で言えば、自由気ままに盗みや殺しをしてもよい自由民主主義社会はありえない。「殺人をする消極的自由」は抑圧する他にない。

従って、むしろリベラルな社会は抑圧や規制を必要とする。

警戒が必要なのは、多くの人が積極的自由と消極的自由を無自覚に混同して、「実質的自由は抑圧されていないのだから、自由は何も抑圧されていない」と理解し"安心"する時や、自己欺瞞に安住する時だ。昔の"理性"主義者は、次のように考えた。

「理性」が命じる[積極的]自由こそが、真に重要な自由だとわかる。みんな理性に従って、重要でない消極的自由を抑制するべきだ。

まさにこうした物言いに危険がある。バーリンは経験主義者っぽい調子で、「白状しておかなければならないが、わたくしは、この文脈において「理性」がなにを意味するかをまったく理解しえなかった」[*3]と述べている。ここには後世のフーコー主義者などに通じる反逆者的な響きがある。反逆者の言うことにも一理ある。

確かに現実的には、積極的自由的なものと消極的自由的なものはしばしば対立する。つまり、あなた個人や、特定集団の安全や尊厳や平等や正義や価値観を回復するために、別の誰かの消極的自由が抑圧されることがある。

「それは抑圧ではない。強者に抑圧されていた人々が、"普遍的正義"や"道徳的真理"に訴えて、本来自分が持つべきだった権利を取り戻しただけのことだ」と反論したくなるかもしれない。まさしく、バーリン的な論理はそのような道徳的弁明に抑圧の危険を感じ取る。

私が思うに、抑圧や規制は必要な事があるのだから、必要とした時は率直に「自分は抑圧しています」と言えなくてはならない。問題はリベラルが抑圧や規制をすることではなく、「自分は何も抑圧や規制をしていません」と振る舞うことにありそうだ。冒頭の古市さんのような、リベラル批判者の感じる「矛盾」にも、共感できる面がある。リベラルが何かを規制しようとしたり、圧力をかける時は、それが自由を抑圧することなのかどうか、争点化せず曖昧な態度をとっている気がする。

その背景には先述したような、欺瞞に陥りやすい「積極的自由」の性質も関与しているだろう。誰かの自由を抑圧や規制しても、特定の弱者や特定の正義を基準に考えることで「わたしは抑圧や規制を行ったのではなく、真の自由を回復・実現したのだ」と納得できる。自分は抑圧や規制で手を汚していないと、安心することができる。これで"自由の擁護者"という自己イメージは保存されるのだが、ヨソから見るとズレが出てくる。

このため表現規制など、特定の事柄の消極的自由にかけがえのない価値を感じる人々と、認識が噛み合わないのではないか。まずは話が噛み合わない理由を、浮かび上がらせる必要があるだろう。それを消極的自由と積極的自由の概念により行ったのが、この記事だ。

[*1]:アイザイア・バーリン『自由論2』(みすず書房 1971年)の304, 306頁、ドアの例は『自由論1』73頁に示されている。

[*2]:『自由論2』319-322頁あたりが参考になる。

[*3]:『自由論2』358頁。

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