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レンタルスペース「mansikka マンシッカ」誕生の物語 ~前編~

私の複業の一つ、レンタルスペース「mansikka マンシッカ」は、2019年7月から運営を始めました。この日を迎えるまでに何が起こったのか、どうしてこの日を迎える事になったのか、誕生までの話をしたいと思います。

遡る事約10年前。その頃私は、設計事務所に勤務していた。確か日曜日だったかな、朝早く母からの電話で目が覚めた。「お父さんが倒れて救急車で病院に運ばれた。」そして、この日から私の生活は一変した。

父の様態は一旦持ち直したものの6ヶ月の入院の後亡くなった。私は実家に戻り、母と叔父と私の3人での暮らしが始まった。実家は戦後すぐに建てられた築70年程の純日本家屋の古民家。昔の家なので高齢者にとって住みやすい家とは言いにくい。メンテナンス不足もあり、かなり老朽化が進んでいた。父の葬儀や事業処理が概ね落ち着いた頃から、「この家どうしたらいいのだろう?」という思いがズシリと肩にのしかかってきた。この当時私はまだ設計事務所で働いており、多忙を極め、肩にのしかかった思いを抱えたまま過ごしていた。

父が亡くなって数年が経過、その間も「この家どうしよう?」と思いながらも、設計事務所での仕事は相変わらず忙しかった。この頃職場では、小さな設計事務所であたったにも関わらず、M&Aで中堅ゼネコンに吸収されるという大きな組織変更が起こった。この事態に納得出来なかったベテランの主だった設計士が事務所を去っていった。私を含む残された下っ端設計士は、新しい組織の中で揉まれて揉まれて今まで以上に忙しくなった。職場の雰囲気も人間関係もガラリと変わり、精神的にも肉体的にもギリギリの状態で仕事を続けていた。

建築の仕事は、やってみて初めて知ったけれど、本当に多岐に渡る。図面を描く以外の業務の方が比重を占めているのではないだろうか。基本的に1人1物件を担当する、そして計画から竣工引き渡しまでの期間は物件の規模によっては数年かかることもある。

私は中途採用で設計をやってみたくてこの世界に入ったので、この事務所以外の状況を知らず、今思うと自分1人で抱え込みすぎてたなと思う。その当時は心に余裕が全く無く、周りが全く見えていなかった。退職した後で知った事だけど、私1人に売り上げの立つ物件が集中していたようだった。忙しい訳だ。

当時の私は、工程通りに業務を進める事に精一杯で、常にビクビクしていて、人の意見に敏感で、作り笑いをして、自分を大切に思う心も忘れて、じんましんが出ても見て見ぬふりをしながら毎日をどうにかこうにか生きていた。終電を逃すことも日常茶飯事、なのに、そんな毎日に疑問も感じず必死だった。

だって、やってみたくて人生半ばで入り込めた設計の仕事、今これ辞めたら私どうなるんだろう?今辞めて他で働く場所なんて無いだろう、やるしか選択肢ない、って本気で思ってた。自分の事で精一杯で、実家の事を考える余裕もなく、実家について具体的なアクションを起こすことはなかった。

母は高齢の叔父(母の実兄)を老老介護していた。叔父は認知症になる事もなく元気に過ごしていたが、ある日デイサービスから帰宅後、風邪をこじらし寝込んでしまった。そのうちに介護度があがり母の負担が大きくなってきた。滅多に弱音を言わない母が「私もう無理かも」と相談してきた。「このままでは、母が倒れる」実家に戻ってきたのに母の手伝いを何も出来ていない自分が情けなかった。母が倒れても私が倒れても現在の生活はほぼ崩壊する、まずい!まずい!まずい!こうして、私は具体的な人生後半のプランもなく、設計事務所を退職した。叔父は私が退職した翌年1月に亡くなった。91歳だった。

設計事務所を退職した当時の私は、精神的にかなり病んでいたと思う。抜け殻のような状態で、何をしたいのか、何が出来るのか、何のために生きているのか、出口の見えないトンネルの中に迷い込んだようだった。大学を卒業してから設計事務所を退社するまで、基本的にずっと会社員として働いてきたので、仕事に行かず家にいる生活に罪悪感を感じつつも、何も出来なかった。

それでも「この家どうしたらいいんだろう?」という悩みは常に抱えていた。これを解決しないことには前に進めない、出口の見えないトンネルから脱出したい、ようやく、重い腰をあげて、行動を始めた。

続く

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