隠しても隠さなくても変わらんものは変わらん


私の顔には広範囲にそばかすがある。
思春期の頃に「色白だから仕方ないね」と誰かに形容されて、そのまま「仕方ないもの」だと受け取った私は、化粧をするようになってからはコンシーラーやファンデーションで隠す習慣がついていた。

でも、世間にはそばかすメイクなるものがあるらしいし、SNSを賑わせる美人たちにも、そばかすがある人もいるらしい。
化粧に疎いまま生きて、脳死でコンシーラーを使い続けていた私は、そのどちらにも驚いた。
驚いたし、嬉しかった。

もちろん好みはあるだろうけど、大きな救いのような気もした。救いのような気もしたし、でもやっぱ何にもないつるつるのお肌がいいなとも思う気持ちもあった。
それでも散らばるそばかすをのせた笑顔の女優さんの写真は、頭から離れなかった。

そもそも私は何に怯えて何が嫌でそばかすを隠してたんだっけ、と疑問が湧いたけど、本当に何も考えずに誰かに言われた言葉を素直に受け取って、大事にしまってしまったんだろうなという説が今のところ有力だ。
誰に言われたかも思い出せないけど、私の一部を仕方ないものだと形容されたことに、当時の私は、きちんと傷ついていたのだ。
当時は傷ついたことに気付くことはできなかったけど、おとなになってから、その気持をきちんと受け取ることができた。


そうしたら、顔に散らばるそばかすが、前と同じ憎いものには思えなくなった。 
これは良い諦めだ、と感じた。
コンプレックスは大なり小なり誰もが抱えているものだろうから、無くす必要もなかった。
そのコンプレックスが不意にどうでも良くなったときは、どうでもよくなった感覚に身を任せたら良かったのに、変に形作られた習慣に固執してしまっていて、私自身の感覚をないがしろにしていたようだった。

私は良くも悪くも「こうしたい」「こう思いたい」というような、形にこだわる規範意識とか義務感みたいなものが強くて、感情や行動を宙ぶらりんにしておくことが苦手だ。

化粧を始めたての頃の私は精神的にも今よりもっと幼くて他人の言葉をまっすぐに受け取っていたし、受け取った結果肌はまっさらな状態でなければならないと思っていた。
思い込んでからはもう惰性で、隠す行為が習慣として形作られてからは考えることなく手が動いて、そばかすは隠すものだと私に覚えさせてしまっていた。我ながら困った形状記憶機能を持っている。

結局化粧時間がかなり短縮されたけど、特に周りの反応は変わらなかった。
高いコンシーラーで誤魔化していた頃も、隠しきれずにむき出しになった今も、なんにも変わっていない。
優しい友人や知人は相変わらず優しいままだし、この人は私に興味がないんだろうなという人もそのままだ。

世間が私を好きでいさせてくれない、とまるで被害者のような気持ちを持ってしまっていたけれど、私の内面はあくまで私のものであることを実感して、何だかくすぐったい気持ちになった話。

もしかしたら腹の中で私の顔を批評している人もいるのかもしれないけど、でも私には何も漏れ聞こえてこないのだから、それは「変化がない」に四捨五入してしまって良いのだと思う。
私が私の世界を、あえて生きづらいものにこしらえる必要はどこにもないね。

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