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私にとってわかりやすい人間でいてほしいと思ってしまう
みんな大体、誰かの大切な人で、別の誰かにとったらそんなに大切じゃない人だ。加えて、職場では先輩だったり部下だったりいろんな役割を抱えていて、その役割への期待と応酬で社会は成り立っている面もあるように思う。
最近、学生時代からの友人の一人が籍を入れた。
報告の場で、ほんとにありえない、とパートナーへの不満をこぼすその尖った唇からは、一方でパートナーへの愛が零れていた。
妥協と擦り合わせで成り立ってるらしいその生活が、外野の私から見たら甘く美しいもののように見える。
失礼なことに私は、心からのお祝いの気持ち(これは本当にあった)に並行して、その友人の中にある私が知らない側面を遠ざけたくてたまらない気持ちも湧いてきてしまった。
同じ教室で授業を受けて、格好のつかない中途半端な丈の靴下と、かすれた名札のついた体操着を着て持久走をして、あまりかわいくないと思いながら袖を通し続けたお揃いのセーラー服が、なぜか名残惜しくて仕方なくて、袖で涙を拭いあった思い出は、共通のものなのに。
なのに、のあとに続く言葉が出てこない。
嫉妬とも羨望とも違う気がする。圧倒的な大きさと重さの何かだけど、うまく言葉に乗せられない。単なる寂しさだけではない気がするのだけど、今の私の語彙では限界のよう。
いつまでも私の中の「友人像」は学生の頃のそれのままで、私が意識的にそうであってほしいと望んでいる部分もあって、でもそれは不可能だということも分かっている。分かっているつもりなんだけどな。
困ったことに(本当に)私個人は、何の役割も与えられなければ時間や感情を持て余してしまうのに、役割を与えられたら与えられたでその重みや軽さに耐えられず逃げ出してしまいたくなる性質を持っている。
この先も恐らく、こういった感情のあしらい方に悩み続ける人生なんだろうなと痛感して、逃げ出したくなってしまった。
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