自分を疎ましく思うときの感情処理について
自分の苦手や我ながら疎ましく自分の質を自覚したとき、その感情の処理が不得意だ。
ああ私はやっぱりこうだ。
だからだめなんだ。
自分を否定してしゃがみ込むための言葉は尽きることがなくて、その言葉の量に押されるように、元気もやる気もモチベーションも、加速度的に失われていく。
一度、ちがうちがうと情けなくなって、どうにか口に出して消し去ってしまいたくなって
「なんで私こんなにだめなんだろう」と打ち明けたことがある。
打ち明けたというか、抱えきれなくなった自己否定が口から漏れ出てしまい、そこに知人がいたという構図だった。本当に申し訳ない。
その知人というか恩人は本当に私と正反対で、何もかもをさくさくこなす、理知的な人だ。
わたしのこうなれたらな、を詰め込んだような人。
間違えた、失敗したと思う私をよそに、知人はただ一言だけ、「そういうときあるよね」と柔らかな声で返してくれた。「居場所を増やすといいよ」とも教えてくれた。
その居場所については、また別のところで書き連ねてみたいのだけど、その知人の「そういうときあるよね」は今でも私のお守りだ。
そういうときもあるし、そうじゃないときもある。
そのくらいの塩梅で、願ったり叶えたり失敗したりしていきたいな。
先日久しぶりにその知人と会ったときに、覚えてる?と上の話をした際の彼女の表情が照れくさそうで失礼ながら可愛くて、いっそう感謝が募った話。
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