口に詰め込んで誤魔化すままならなさ

ちょっと慣れないことをする日。
あたらしい場所に出向いて人と関わる日。
そしておそらくそれらがとても自分にとって大切であると思うとき。

人生には山程あるこういった場面が近づくと、心がわさわさする。心臓がここにあるよ!とその存在を主張してきて、落ち着かない。肩に入った力が抜けなくて、呼吸が浅くなる。

落ち着かなさが食欲(食欲というか、口さみしい感覚)に直結するタイプの私は、一人暮らしが7年目に差し掛かった今でも、必要最低限以外の食料品を家においておけない。落ち着かないときに、その気持ちを誤魔化すみたいに食べつくしてしまうから。

思い返せば小学生くらいからこの癖はあったのだけど、あまり気にしていなかった。というか、私はただただ食べることが好きなんだなという自覚のみで生きていた。

小学生のころの私は、苦手な家族に怒られた日や、言葉にならない劣等感に襲われたとき、なぜか冷蔵庫の中身が気になって、気になったら見たくなって止まらなかった。
家族が寝静まった後に、なるべく静かに冷蔵庫を開けて、スライスチーズやらヨーグルトやら、朝ご飯用に用意されているであろうそれらを口に詰め込んだ。お菓子だった時もある。
その行為そのものに、どこかに後ろめたさもあったから、家族が寝静まった後にその行動をするようにしていたのだろうけど、当時はただ丸々としていく自分の体型が憎らしくて仕方なかったことを覚えている。
それでも、その癖が私の生活に完全に組み込まれてしまってからは、習慣化した「口に詰め込む作業」で心の安定をはかるようになっていた。
頭では理解していなかったけど、私の体は完全に、食で感情のバランスを取ろうとしていた。


その癖が一人暮らしを始めてからも収まらなくて、ようやく自分が食事が好きなのではなくて、食べ物を口に詰め込むことによって得られる安堵感を求めていることに気づいた。
そこからは、その癖で私が私をこれ以上嫌いにならずにすむように、何が私をままならない気持ちにさせるのか、私は日常のどの作業やどういう場面が苦手で、そうなってしまうのかを意識的に明らかにしていった。運動が好きだったことも幸いしていた。

今でもその癖は残っていて、たまに発動してしまう。帰り道はもう家に帰ってから何を食べるかしか考えられなかったり、そのくせ華奢な友人の肩の薄さに、見惚れながら僻むこともある。


それでも最近、ふと「大丈夫かもしれない」と思えた。本当に不意に、その感覚はわいてきた。
「あれを食べよう」「コンビニで何を買おう」と食を求めることが染みついてしまっていた思考に、「でも今食べたらたぶん気持ち悪くなるな」「明日食べたほうがおいしいかもしれない」というような横槍が入り込む隙が生まれたのだ。ほかの人はこれがデフォルトで装備されているのかもしれないけど、私にとっては革命だった。

きっと年齢的に食への欲が落ち着いたとか、そもそもそんなに食べる必要がないことにようやく脳が気づいたとか、考え詰めていけば何か明確な理由があるのかもしれないけど、今はこの曖昧な横槍が、私の救いになっている。


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