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珍芸四天王

本日(令和5年7月3日)の朝ドラ『らんまん』で「ステテコ踊り」が登場した。

向こう横町のお稲荷さんへ
一銭あげて
ざっと拝んでおせんの茶屋へ
腰を掛けたら渋茶を出して
渋茶よこよこ横目で見たれば
お米の団子か土の団子かお団子だんご
そんなこっちゃ仲々真打にゃなれない
あんよを叩いてしっかりおやりよ
テテコ、テコテコテコ

明治中期の寄席でたいそう流行った珍芸のひとつで、鼻が大きかったことから「鼻の圓遊」とあだ名された※三代目三遊亭圓遊(1849ー1907)が、端唄『向こう横町のお稲荷さん(ステテコ)』を歌いながら、尻っぱしょりに鉢巻姿で踊ったものだった。その時に鼻をつまんで鉄瓶の中に捨てるポーズや、足をペチペチ叩いては伸ばす仕草を取り入れた。
(※本来三代目なのだが、このステテコ踊りがあまりに当たったため、初代三遊亭圓遊とされることがある)
この珍芸は大いにウケて、圓遊は「※八丁荒らし」とあだ名されることとなる。同門の噺家もみな人気にあやかって「ステテコ踊り」を踊るようになったという。
(※圓遊が出る寄席は札止めになるが、ここの八丁四方の他の寄席は客足が途絶える=荒らされるため)

「ステテコの圓遊」と同時期に、珍芸でウケた「ラッパの圓太郎」(四代目橘家圓太郎)、「へらへらの萬橘」(初代三遊亭萬橘)、「釜掘りの談志」(四代目立川談志)を加えて「珍芸四天王」と呼ばれた。

「ラッパの圓太郎」
四代目橘家圓太郎(1845ー1898)は高座に上がるとき、寄席ばやしではなく、鉄道馬車や乗合馬車が警笛がわりに鳴らす真鍮のラッパを吹いて上がった(豆腐屋が鳴らすラッパ)。当時はメクリ(高座に上がる演者を記した名札)がなかったから、ラッパが聞こえると圓太郎だとすぐに知れた。これがあまりに流行ったため乗合馬車を「圓太郎馬車」と呼ぶようになる。

「へらへらの萬橘」
初代三遊亭萬橘(1847ー1894)が高座あとで赤い手拭で頬かむり、赤い扇子を広げて下座の三味線に合わせ、

太鼓が鳴ったら賑やかだ
大根が煮えたら柔らかだ
へらへったらへらへらへ

と意味ない歌詞を歌いながら、踊ったのが当たって真打になったという。

「釜堀の談志」
四代目立川談志(?ー1889)が中国の二十四人の孝子をまとめた書物『二十四孝』の中の「※郭巨の釜掘り」を、うしろ鉢巻に二つ折りにした座布団を子どもに、扇子を鍬に見立てて、

この子がある故、孝行ができない
テケレッツのパァ
相乗り帆掛け、ほっぺたおっつけ
テケレッツのパァ

と囃しながら、再現してみせた。
(※郭巨には母と妻子がいたが、家が貧しく母に食べさせることができなかった。郭巨は「夫婦がいれば子はまた授かるが、母を失っては再び得ることは出来ない」と言って、穴を掘って我が子を埋めようとする。するとその穴から金の釜が出てきて、これで母に孝行した)

【参考文献】
三代目三遊亭金馬 著『浮世断語』「珍芸変人」

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