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プラントハンター須川長之助

万延元(1860)年、ロシアの植物学者カール・ヨハン・マキシモヴィッチは箱館の地に降り立った。7年前にプチャーチン提督に随行する形で日本に赴くはずであったが、航海の途上でクリミア戦争が勃発したため頓挫。かわりに訪れたアムール地方の植物採集を一書にまとめ発表すると、学会で好評を得て、ロシア科学アカデミーのデミドフ賞を受賞した。このときの賞金を使い、開国間もない日本へとやって来たのだ。だが、開かれたとはいえ外国人は決められた居留地とそこから十里四方内しか自由な移動は認められておらず、植物採集には足枷となった。マキシモヴィッチには、自分の手足となる日本人助手が必要であった。

生い立ち


須川長之助は、天保13(1842)年2月6日、陸中国紫波(しわ)郡下松本村(現在の岩手県紫波郡紫波町下松本)、須川与四郎の長男として生まれる。父・彦三郎(長之助の祖父)から僅かな土地をもらい分家した与四郎は、農家を営んでいたが豊かとは言い難く、長之助は12歳のときに奉公に出された。安政5(1858)年に年季があけて、しばらくは実家で農作を手伝うものの、生活が苦しいのには変わりなく、万延元年長之助は仕事を求め箱館に渡った。とにかく住み込みで働けるところをと、はじめに大工の見習い、次に八幡宮の別当(厩務員)、米商人ポーターの馬丁と次々に職を変えたが長続きしなかった。そんなときふと訪れたロシア正教会(函館ハリストス正教会)で、神父から下働きを探していたマキシモヴィッチ博士を紹介された。

いざ、植物採集へ

長之助はマキシモヴィッチの掃除夫兼風呂焚きとして雇われることとなった。その働きぶりは誠実そのもので、寄寓していた箱館のロシア領事館でも評判となる。マキシモヴィッチもたいそう気に入り、これなら任せられるのではと、長之助を植物採集助手とすることを思い立った。臥牛山(函館山)へ長之助を同行させては、植物についての知識や観察、採取の方法を実地で教え込んだ。外国人の行動制限もあったが、まだ攘夷の嵐が吹き荒れている中で、思いのままに植物採集をすることは難しかったため、一人でも採集ができる力のある助手に育てなければならなかったのだ。片やロシア語、片や南部言葉。互いに意思疎通が難しい中で、試行錯誤しながら植物採集の手順を教えた。長之助は持ち前の実直さで、これを習得。拙いながら奉公先で必要に迫られて覚えた文字で、必要な情報を書き込んで標本作りを手伝った。この採集と標本作りはマキシモヴィッチが離日する元治元(1864)年までの3年あまりのあいだ行われた。横浜・長崎を経由して九州各地(彦山、阿蘇山、霧島、温泉岳など)の採集旅行にも長之助は同行、また行けない場所にはマキシモヴィッチの代わりに採集に向かった。
さらに、マキシモヴィッチがサンクト・ペテルブルグの戻った後も、採集助手の仕事は長く続くことになった。長之助は『日本植物誌』の上梓を目指すマキシモヴィッチの依頼にあわせ、ふるさとの岩手県のみならず、望まれれば全国各地に採集旅行に出掛け、標本を作って送った。長之助の植物採集は明治24(1891)年マキシモヴィッチが死去するまで続けられた。

“tschonosky”(チョウノスキー)


植物学者の伊藤篤太郎が英留学していたとき、マキシモヴィッチの植物標本を見る機会があった。大変出来もよく、技術的にも優れているこの標本が、須川長之助の手によるものであると分かり、日本に全く知られていない「プラントハンター」がいた事に愕然とした。帰国後、しばらくして東京・駿台のニコライ師の許で会った長之助を「状貌朴素質直ニシテ田里農民ノ風アリ」と農村にいそうな素朴なおじさんであると述べている。そしてマキシモヴィッチの死後、長之助が植物採集から一切手を引いてしまったことを非常に残念がり、できることなら再び戻ってきてほしい、と述べている(『植物学雑誌』)。
マキシモヴィッチは採集標本の出来に満足し、新種の命名にあたって種小名に“tschonosky”を用い、献名して、その協力者の働きぶりに感謝の意を表した。また、長之助もプラントハンターとしてマキシモヴィッチの役に立つことを喜んでいたからこそ、その死ののちは採集から一切手を引いてしまったのだろう。長之助は地元岩手県へ戻り、以後は農業に専念したが、大正14(1925)年2月24日に永眠した。84歳だった。マキシモヴィッチと須川長之助の関係は植物だけではなく、半ば家族のような深い結びつきを持っていたのかもしれない。

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