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北海道をデザインした男

Boys, be ambitious


明治9(1876)年開拓使長官黒田清隆は、マサチューセッツ州立農科大学長ウィリアム・スミス・クラークを札幌農学校の初代教頭として招聘する。白羽の矢が立った理由の一つは新島襄にあった。アーモスト大学(アマースト大学)でクラークの講義を受けていた新島襄が、以前から明治政府に「クラーク博士の招聘」を猛プッシュしていたのだ。
クラークは大学を一年間休み、教え子のウィリアム・ホイラーとデヴィッド・P・ペンハローを伴い来日した。札幌農学校の校長は開拓使の役人が兼務するので(このときは調所広丈[調所広郷の三男]が務めていた)、教頭が実質 学校の長であった。クラークは農科大学での指導方針と、キリスト教の精神を持ち込み農学校の経営を主導……したのは翌年の4月まで。せっかく軌道に乗り出したのに、なんと8ヶ月あまりで離任してしまう。そう、クラークは学長を務めている大学の「休み期間」が終わったので、「Boys, be ambitious (like this old man)」の言葉を残してアメリカに帰ってしまった。

二代目教頭は26歳


クラークが帰国後、教頭の職についたのはウィリアム・ホイラーであった。1867年開校のマサチューセッツ農科大学の第一期生として、最年少の16歳で入学、学長のウィリアム・S・クラークの薫陶を受け、なんと次席で卒業する。専門である土木技術師として鉄道施設、河川への架橋、水路の設計などに従事した。その腕を見込まれクラークとともに来日、札幌農学校では数学、土木工学、英語を担当していた。性格は実に厳格であったが、学生たちから大変人気がありその容姿からか「山羊」とあだ名され親しまれていた。そのホイラーの教え子には工学博士の広井勇、文学者で伝道師の内村鑑三、教育者で思想家の新渡戸稲造、植物学者の宮部金吾、農学者でのちの北海道帝国大学学長の南鷹次郎、英語学者の佐久間信恭らがいる(彼らはクラークの指導の元、信仰を誓ったプロテスタントのグループ「札幌バンド」の面々でもある)。

北海道をデザインする


ホイラーの仕事は教育だけに留まらなかった。もっとも有名なものとしては札幌農学校の「演武場」、現在の「札幌時計台」を計画したことだろう。北方警備のための訓練場として作られたこの建物は、ホイラーが基本構造を考えたとされる。これに加え、農学校の講堂や図書館、寄宿舎や畜産小屋なども計画、建設を進めている。
また、札幌に気象観測所を設置したのもホイラーであった。国内では3番目(箱館、東京の次)に出来たもので、来日後 間もない明治9年9月1日札幌農学校内に測候所を置いた。その後、石狩川沿岸や留萌、根室などにも観測所を設置するように進言している。
さらに開拓使の依頼により、札幌―小樽間、札幌―室蘭間の鉄道敷設の計画と、実測による鉄道の設計を指導したり、河川整備や人工水路の計画、そこに架ける橋の設計までも行っている。
まだ発展途上にあった北海道の地を、住みよい街へ設計していく。まさにホイラーは北海道を最初にデザインした男なのではないだろうか。しかもそれは、明治9年の来日から(結婚のための)一時帰国を経て、明治12年に離日するまでのたった3年半の間に行った(計画した)仕事なのだから驚かされる。

帰国後のホイラー


明治13(1880)年帰国したホイラーは故郷のコンコードに居を構え、ボストンに建設事務所を開設した。ここでまだ未達の上下水道を普及させるために、アメリカ東部の各州を飛び回ることとなる。そんななか、明治16年12月留学のために広井勇が私費で渡米。ホイラーは教え子の冒険に対し、何らかの便宜を図ったようで、広井は陸軍工兵隊本部に技術者として採用され、ミシシッピ川とミズーリ川の合流地点の河川改修工事に従事している(その後も広井は架橋工事などに携わり3年あまりアメリカで暮らした)。
大正13(1924)年には、日本政府から「勲五等朝日章」を授与されている。この受章には、札幌農学校時代の教え子たちの後押しがあったことは想像にかたくない。
1932年7月1日、故郷の地コンコードで逝去した。享年80歳。

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