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Netflix版 「火花」 第8話

ドラマ、映画をこれまでみてきて、こんなにも涙を流した作品はなかった。
なぜここまで泣いてしまったのか。
これを整理するために書き留める。

第1話から7話まで。
主人公の徳永。
徳永が慕う師匠の神谷。

これの周りの人間の物語。

漫才という世界において、自分の理想を追い求めていた徳永。その前に現れた神谷は徳永にとって自分の追い求める漫才そのものだった。

漫才の権化、理想像、憧れ、願望。

様々の感情の入り混じる羨望の眼差しで神谷をみた徳永は弟子入りを申し出る。

神谷の一挙手一投足を書き留めることなる徳永は、何冊ものノートに神谷の漫才理論を書き留め、より理想の漫才を追い求めて行く。

しかし、世間の求める漫才からかけ離れ、世間が離れて行く神谷と、自分の理想から離れていってしまう自身の漫才が世間に認められ成功して行く徳永の対比がより徳永自身の葛藤を産んでいく。

全ての終わり。
8話で、自身の単独ライブを成功させた徳永。
しかし常に神谷の姿を追いかけてしまう徳永はライブ後に徳永に会いにいった。

自分の漫才を認めて欲しい徳永は、自分の理想と違う漫才をしていることに葛藤をしつつも、どこかで神谷に認めて欲しい気持ちも持っていたのだろう。

飲み屋で待っていた徳永の前に現れたのは、世間に飲みこまれてしまった徳永の模倣をする神谷の姿だった。

同様を隠せない徳永を連れ神谷が向かったのは、新しいパートナーの家。

そこでは鍋の支度をして待っていた神谷のパートナー。

徳永は以前の神谷のパートナーの真樹の姿をその環境に重ねてしまう。

模倣を嫌い、自分を崩さなかった神谷が、以前の環境の模倣、そして自身の模倣をしている。そして鍋の会で流れる自分の理想からずれた自分の漫才。
全ての状況を飲み込んで行った時に生まれた感情は

「悔しい」

理想を追い求めていたはずの師匠が変わり、自分の理想としていた漫才ができないことに葛藤をしていた徳永はそれでも自分の漫才に笑わない神谷を見て、生きていることよりも悔しかったのだろう。

そう。悔しいのだ。

理想を追い求めて努力をし、世間が認めてくれたとしても。

理想を表現することを、世間に合わせることで少し妥協を重ねている自分に対して。
それをすぐに見抜いている師匠が、妥協をし始めたことに対して。

そしてそれは、絶対に自分が報われないことに気がついて理解してしまったことに、心の底から

「悔しい」のだ。

僕はその徳永の気持ちが痛いほどわかってしまった。

死ぬほど悔しくて、悔しくて、そして決して報われることがないことに気がついた時、
それは短い時間かもしれないが、全てに絶望するのだ。

理想を追い求めることは悪いことではない。
けれど売れるためには少し妥協しなければいけない。
その「少し」の妥協を続けることが自分自身の首を真綿で締め続けるように永遠に続く苦しみの輪廻に囚われているような感覚にすらなる。
けれど救いはあった。
師匠に違うだろと指摘をされると、お尻を叩いてもらった瞬間、その真綿は緩み、自分の理想を追い求める余裕が生まれる。

けれどその師匠が、妥協をしてしまったのだ。
妥協をした師匠から発せられる言葉は、真綿が麻紐に変わる瞬間であり、自分と師匠関係の終わりを迎えたことを意味するのだろう。

自分の拠り所がなくなったこと。
自分の理想に近づくことができなかったこと。
自分は1人になってしまったこと。

全てを理解した瞬間、絶望を感じるのだ。

それを認識した時人は、その不甲斐なさ、絶望、失望。
全ての感情をまとめて「悔しい」と思うのだろう。


徳永はこの先どうなるのだろう。
まだみていないからわからない。

けれど、せめて徳永だけは救われて欲しいと思った。

せめて理想に近づいて欲しいと思った。

「悔しさ」を感じ、自分を整えるために「妥協の言葉」を繰り返し続けた僕は、昔の理想を追い求めていた自分自身を殺してしまった。

今は成れの果てでしかない。
けれどその時に感情をおもいだしてしまったのだ。
その時の思いを思い出してしまった。
そして人間は思い出し、コントロールが効かなくなると泣いてしまうのだろう。
思い出せたことは最高に嬉しい瞬間であり、苦しみの輪廻の始まりである最低の瞬間でもある。

けれどまだ足掻いてみたい。
そう思い出させてくれた。

そんな人生最低で最高な1本のドラマになった。

入り混じった感情に歯を食いしばり葛藤と妥協が火花を散らして儚く消えて行く瞬間をもう一度見てみようと思う。


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