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対話をする罪悪感なんてなくなればいい



 授業がzoomを通して行われるようになってから、家にいることが増えた。そんな中、今回ゼミでZoom under the skyというzoomを自室以外の外で受けるプロジェクトが始まった。そのプロジェクトがなければ、わざわざ外でzoomを受けようとは思わなかっただろう。実際に体験してみて良い部分と悪い部分でそれぞれ気づいたことがある。良い部分としては、気分転換になりストレス発散になる。そして偶然の出会いが生まれることだ。例えば美味しそうなご飯や子供が遊んでる姿などが発見できる。(コロナ前はそれが当たり前であったが、私はバイトも家でしているため、家に出ることが急激に減っている)それに対し悪い部分は対話をしなければならないzoomの場合、外で受けることは難しいということだ。接続の悪さや周りの雑音が入るからである。カフェだけでなく、公園などであっても雑音が入ってしまう。そうなると、会話が成り立ちにくく、聴く側がストレスを感じてしまい、話す側は相手に申し訳なさを感じてしまう。



1度英語の授業をスターバックスで受けたことがある。基本的に音声はミュートの授業であるが、先生に挨拶するため、1度ミュートを外す必要がある。その時、私がいる店内のBGMが大きすぎてすぐに先生にミュートにしてと頼まれてしまった。店内のBGMの大きさより私は先生にHelloと大きく言ったつもりであった。zoomを外で受けるなとは言われていないが、家で受けるのが当たり前になっている学生や先生には、奇妙な子だと思われてしまう。ブレイクアウトルームに分かれてミュートを外す際も、他の生徒とは普通に会話できたものの、先生にまたもや店内のBGMを注意されてしまった。次からはやはり家で受けなければならないと思った。授業を受けることを非常に窮屈に感じてしまった。


しかし一方で、対話をしないzoomの場合、多少の接続の悪さであっても聴くことに特化することはできる。
しかし、この対話のないzoomを家や外で受けるだけの生活は大学生というコミュニティ1人1人のつながりを弱くし、自分個人の世界のみで生きることを慣れさせてしまう気がした。地元のカフェなどでも1人で黙々と作業をする学生が増えたことを実感する。コロナの影響もあいまってカフェや公園で会話を主に楽しもうとする人も減ったのではないか。今の時代は外で会話することに抵抗感が生まれつつある。


外のzoomであると対話に一線が引かれ、家内のzoomであると直接人と関わるより孤独で繋がりの弱さを感じてしまう。中には孤独を感じない人もいるだろうが、私はどうしても感じてしまう。なぜなら、家にいてもリアルで体を動かし、言葉を発するのは自分と家族のみだからである。また、zoomだとリアルで会う時よりも、話す目的がないと話さないことが多いことに気がついたからだ。授業が終わると先生はすぐにミーティングを終了する。その後の他の生徒との会話はないまま、家の中で突然1人の空間になってしまう。

ならば、この孤独感を脱却してコロナ渦化でもzoom授業を通してつながりを感じるにはどうすれば良いのだろうか。家から出てコワーキングスペースを借りればよいのか。学生にはそこまでするお金はない。学校に行けばよいのか。これも時間だけでなく交通費がかかる。しかし家の外に出て自分以外の人と会話はせずとも存在を感じつつ、対話する授業を受けたい。この矛盾を解決する策はあるのだろうか、その問いをこのプロジェクト間ずっと考えていた。

私は最終的に場所を変えるよりもっと単純な違う解決策がある気がした。

それはまず外で受けてもいいものだと学生や教授、個人個人が肯定することだと思う。対話するzoom=家で受けるもの、という考え方をみんなで一緒に少しずつ変えていくのだ。聴く側がその行動を肯定すると話す側は罪悪感を感じる必要がなくなる。また、聴く側の人に対して「外で受けているので、少しうるさいですがすみません」と言える関係であれば問題がないのではないか。この外で受けたいけど受けれないという矛盾の感情が巻き起こっていることを知る人がいれば、外で対話のある授業を受けることが異様なことではなくなるのではないかと考えられる。大学生だけが家の中に閉じこまらなければいけないのは残念である。自分が大学生だということに実感がなくなってしまう。多少の雑音や接続の悪さは当たり前だと妥協をし、会話を進めることが最善策だと思った。実際ゼミ生同士のzoomでは、接続が切れたり、雑音が入ることが当たり前の中話しているため、あまり相手に対して罪悪感を感じることはない。まだまだ他にもアイディアはあるのかもしれない。しかし私はこの文を読んでくれている方に、ぜひ雑音や接続の悪さにいらつかず、一度少し対話をしてみませんか、と伝えたい。その瞬間に醸し出す雰囲気が柔らかいものになれば、このプロジェクトは私の中で成功したといえる。

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