3月11日という日のこと

きっと同じテーマの記事がここや、ここじゃないところにたくさんあがるのだろう。
そのうちのひとつに感化されたので、書いてみる。

8年前の3月11日、ぼくは盛岡にいて、大学生だった。あの日は金曜日で、春休みで、翌日の先輩たちの追いコンの準備があった。覚えている。

14:46には、友人たちと夕顔瀬橋の辺りにいた。遅い昼食を摂るために駅の方に向かっていた。覚えている。

友人の一人が、大きな揺れの中で橋の上にいるのはよくないと言って、駅とは反対側に戻って、歩道に傍に生えていた木の下に入った。木の根が地面を支えると言っていた。覚えている。

橋の近くの車道用信号の光が消えて、停電したのがわかった。信号が停電するのを初めて見た。覚えている。

一度戻ろうということになり、友人たちと大学に戻った。覚えている。

そこから細かいことが思い出せない。大学にはまだ仲間たちが残っていて、倒れてきたものがあったとか、でも怪我をした人はいなかったとかそんな話をして、全員帰路についたのだと思う。全部は覚えていない。

動揺していた一人を、自分含め同期三人で家まで送った。自転車を押していた。あの日は春だけど寒くて、夕方には雪がちらついた。覚えている。

昼食は結局食べそこねたと思う。友人たちと寄ったどこかのコンビニでパンか何かを買ったと思う。橋の手前にあったあそこだっただろうか。ぼくの携帯は繋がらなかったと思う。docomoの携帯を使っていた友人は仙台の家族と連絡をとっていたと思う。それから友人たちと別れて、自宅に戻ったのだと思う。全部は覚えていない。

しばらくは余震が続いて数日の停電の中不安だったこと、ちょうど入試の時期で、受験のために東北に来ていた高校の後輩を心配していたこと、卒業式はなくなり、春休みが延び、代わりに縮んだ夏休みは実習ですべてが終わったこと。覚えている。

延びた春休みに車の免許を取った。被災地でガソリンが足りないと報道されているのに、電気の戻った盛岡で、あの日の前から通っていた自動車学校の修了期限に追われて免許を取った。何をしているんだろうと思った。覚えている。

あの日のあと、実家の家族にどのタイミングで無事の連絡を入れたか、覚えていない。

当時していたmixiで友人たちが心配してくれていて、ログインできた際に無事を伝えた。被災地にいる人扱いだった。津波はこなかった。建物の倒壊もなかった。原発の被害もなかった。ちょっと大きく揺れて、ちょっとしばらく停電しただけだよ。そんなことを言ったと思う。
でもぼくだって、逆の立場なら同じように心配したと思う。土地勘はないし距離感もわからないし、心配する側の地域ではきっとあの恐ろしい映像が流れていた。

あの恐ろしい映像を初めて見たのがどのタイミングだったのか、よく覚えていない。でも今でもあまりきちんと見られない。
自分が直接被災したわけでも、直接親しい人が被災したわけでもないのに。

あの頃ずっと願っていて、でも叶わなくて、でも今でもそうだったらよかったのにと思っていることがある。

ぼくは被災しなかったし、直接の友人もみんな無事だった。しばらく連絡が取れなくて心配した子もいたけれど、新学期には無事な顔を見られた。
東北に家族や親戚はいないから、直接心配する相手は友人だけだ。それから先生たち。
安堵した。

新学期になってからだったと思う。友人があの津波で親戚を亡くしたと聞いた。彼女はあの日の少し前にも家族を亡くしていた。

彼女の悲しみが悲しかった。
ぼくの安堵がみんなのものであればいいのに。隣人の友人が全員無事で、その隣人の隣人の友人が全員無事で、その隣人の隣人の隣人の友人が全員無事で、すべて連なればだれも悲しまないのにと思ったのを覚えている。
あの大きな災害でそんなことはありえないだけど、でもそう思った。

ぼくは東北の人間ではなくて、今も東北にはいなくて、それでも縁あって学生時代を過ごしたあの街やあの地域は大切で、あの日が巡ってくるたびにどんな顔をすればいいのかわからない。

先程被災していないと書いたけれど、あの日あの街で揺れを体験しているのだから、一応被災はしていることになるんだろう。被災者の顔はできないししないけれど。

被災者ではない。当事者とも言えない。
でも他人事でもない。

あの日に傷ついた人たちの心や環境が、癒されますようにと思いながら、日々薄れていくあの日あの時期の記憶をどうすることもできずにいる。

#3月11日

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?