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広島・宮島の色

今年の正月旅行は前々から行ってみたかった宮島へ。
今回は宮島1泊以外はノープラン。
一日目に島内をみて
翌日は広島市内へと思っていたのですが
宮島は大変興味深く、新幹線の時間ぎりぎりまで島にいました。

さて、宮島といえば、厳島神社。
みなさんが一番に思い浮かべるのはこちらではないでしょうか?

海上からもひときわ目立つ大鳥居

大鳥居の色の話

大鳥居の初出はハッキリしませんが
記録に残るのは平安時代に平清盛によって建築
そこから9代目にあたるこの大鳥居は、明治8年製。

昨年12月に令和の大修復が終了したことでも話題になりましたね。

ところでこの鳥居の色「朱塗り」と言われておりますが
現在は「朱」という原料を使っているわけではありません。
(朱は硫化水銀という鉱物です)

今回の修理で使われているのは、有機質の顔料にアクリル樹脂の組み合わせ。
環境に害がなく、耐久性もある現代的な組み合わせになっています。

柱は楠。このサイズの楠はいまではもう手に入りません。

そして、そして明治42年当時の色材の組み合わせは
鉛丹(四酸化鉛)とニカワです。
鉛丹はフジツボなどを寄せ付けにくいため、以前は船の船体にも塗られていましたが、海洋汚染のもととなるため現在はあまり使われていません。

それ以前にも弁柄を使っていた時代もあり
更には、色が塗られていなかった時代もあったようです。

この色が塗られていなかった時代はいつなのだろう?と少し調べてみました。

一遍聖絵(いっぺんひじりえ・1299)には朱塗りの大鳥居

鎌倉時代に描かれた一遍聖絵には赤い大鳥居が描かれています。

そして、こちらの歌川広重の描く幕末の大鳥居はなんと樹皮がついています。横木はうっすらと赤く見えます。浮世絵の色が変色しているとすればこちらも赤い鳥居と言えそうです。

『六十余州名所図会 安芸 巌島祭礼之図』嘉永6年(1854年)

残念ながら、全ての鳥居の絵が残っているわけではなく
また、色材が記されているわけではないので
実際にどんな色であったかはわかりません。

ただ、現在の大鳥居に関してははじめの30年くらいは
白木だったことがわかっています。

明治初期は、神仏分離令が出されていました。
それまで千年以上の長きにわたり日本は神仏融合策をとってきましたが
ここできっちり分けることに。
神社なども「赤い色は仏教的」とされ
白木で作ることが推奨された時代でした。

その後、上記に記載したように明治42年、赤い鳥居が復活しています。

鳥居の両サイドには日と月のレリーフがあります。


マチの色の話

宮島は、昔の町家をそのまま利用しているところも多く
町歩きをするのはとても楽しい場所です。

ぶらぶらと散歩をしていて、ふと気が付きました。
現在は渋い茶系の木造家屋は、もとはこの色ではなかった、ということに。

古いまちなみ

建物の壁や、軒の内側に弁柄の赤い色が残っています。

アップにしたらわかりやすいでしょうか?

赤い弁柄は、岡山県の高梁市・吹屋が名産。
もしかしたら、この建物が建てれた当時は、そちらから運ばれてきたものかもしれません。

まちなみの色について調べたところ
この地域には、壁にも漆喰に赤い弁柄をまぜたり
墨を混ぜて灰色にしたり、
群青を混ぜて青くした壁を作っていたそうです。

群青はアズライトという鉱物。これを使う時点で
とんでもなくお大臣な壁だったかということがわかります。

また、木材部分に塗った色も、赤っぽくしたり黒っぽくしたり
家々によって異なっていたとか。
(木材に弁柄や墨をぬることで木材保護になります)

現在はほとんどの家が渋い木材の茶色ですが
当時は青、灰色、黒、赤等の様々な色に塗られていたはずです

食事に入った、「牡蠣屋」さんは宮島の昔を連想させるような色彩設計でした。

朱色の大鳥居を通って
やはり朱色の厳島神社を参拝した人たちは
参拝後には、カラフルな街並みを楽しんだのかなと想像します。
それは竜宮城のような、夢の中のような景色だったのかもしれません。

宮島・厳島神社


宮島の町家が作られたのは、江戸後半から昭和初期だそう。
お身内の方で昭和の前半の宮島を訪れたことがある方がいらしたら
ぜひお話を聞いてみて下さい。
そして、当時のことを聞くことができましたら、
ぜひ私にも教えてくださいね。


注)この記事は、私、眞井彩子が見た様子を推測で書いています。
実際にどんな景色だったのかはまだ十分調査できておりません。


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