聖書物語② 罪、それでも神の愛は偉大だ!
今日は罪と悪についての話をしましょう。
LGBTQの皆さんは、クリスチャンから「あなたの性自認と性的指向は罪だ」と言われたり、そういうキリスト教の話を聞いたことがあると思います。もしくは、「あなたの性自認は問題ないが、性行為をしてはいけない。それは罪だからだ」というクリスチャンも少なくはありません。
聖書の物語では、創世記の3章を「罪の始まり」とか「人間が罪を犯し、また悪に囲まれている状況の説明」している箇所と言われています。人間の想像を描いたのが創世記の1章と2章、そしてさっそく3章で罪の話になります。
神は人間を創りました。そして、その人間は2人。アダムとエバと呼ばれます。この2人が次のような経緯で罪を犯しました。
· Gen. 2:16 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
· Gen. 2:17 しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
· Gen. 3:1 さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
· Gen. 3:6 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
人間は神のかたちに造られました。人間は神と自然とほかの人間たちと調和を保ちながら生きて行くことが期待されていました。神を知り、神と交わることができました。創世記3章で、アダムとエバは「善悪の知識の木から取って食べ」てしまいました。
ある人たちは、これが「神の命令」に背いて、神に逆らった、いわゆる人間の「罪」の初めだと考えます。また別の人は、これが人間の罪とは、どういうものかを描写していると言います。
神は「知識の木の実を食べてはいけな」と言った。しかし、アダムとエバには、「知識の木の実」は美味しそうで、食べると賢くなりそうな気がした。さあ、私たちはどちらを優先するでしょうか。神の善と人間の善、神が良いとすることと人間が良いと思うことの対立が生まれます。神の善と人間の善がいつも対立するわけではありません。例えば、一般的な通念として、「不倫は悪」ということになっています。恐らく、すべての人が不倫は良くないということに同意すると思います。しかし、いろいろな環境が整い、不倫をしてしまう人たちがいます。不倫によって傷つけてしまう人や自分の破滅を考えられなくなってしまっています。
神の善とアダムとエバの善が対立してしまいます。その結果、アダムとエバはどうなったでしょうか。アダムは「知識の木の実」を食べたことをエバのせいにします。アダムとエバの息子、カインは弟のアベルを殺害します。創世記3章の出来事以来、私たち人間は、「神の善と人間の善」の間で混乱しています。これが罪の状態です。
しかし、聖書を読んでいくと、「自分が罪を犯した、悪いことをしてしまった」ということで、とても苦しんでいるというような話はあまりありません。むしろ、聖書に書かれていることの多くは、他の人の罪によって、「何の理由もなく苦しむこと」や「この世の中の不条理」に対して神に助けを叫んでいる人間の姿です。
例えば、聖書の中心的なストーリーの一つで出エジプトという出来事があります。数千年前のある時、中東に飢饉が起こり、イスラエル人70人ほどがエジプトに移住しました。その移住から400年後、わずか70人だったイスラエル人は恐らく2-300万人ほどになったと考えられます。そこで、増えてしまったイスラエル人にエジプトの王は恐れをなし、彼らを奴隷とし、苦役につかせました。この時、イスラエル人たちは神に助けを求めました。その時に現れたのがモーセです。そのモーセをリーダーとして、神はイスラエル人たちをエジプトから救い出しました。つまり、エジプトの王の圧政という罪に苦しんだイスラエル人たちを、神が救い題したというストーリーです。
聖書が描いている罪について、おさらいしましょう。罪とは「神の善と人間の善」が一人の人間の中で混乱している状態を言います。人間の善が神の善を超えてしまい、それが自身の破滅を引き起こしてしまいます。その結果、人間は愛によって神、自然とかかわることができなくなってしまいました。人や神を愛するよりも、自分の欲求を追求する存在になってしまいました。そのために、人間は周りの人を苦しめ、支配するようになってしまいました。LGBTQやシス女性の方々がこの社会の中で生きづらさを感じたり、差別言動によって苦しむのはそのためです。人類はこの状態から抜け出す術を知りませんし、その術を自分では持っていません。
さらに、罪というのは、ある種の宇宙的な力です。どんな力でしょうか。人間を「神の善と人間の善」の混乱の中に閉じ込め、互いに傷つけあう状態にとどめておく力です。私たちはこの力を持った存在をサタンや悪魔と呼ぶことがあります。
神が人間を造った時、「それは非常に良かった、素晴らしい、美しい」と言ったその状態から、アダムとエバの出来事を通して、人間は罪という力に閉じ込められている状態になってしまいました。これがキリスト教が「罪」と呼んでいるものです。そして、「罪」に囚われている人間の姿です。
では、神は何をしているのでしょうか。罪を犯す私たちに怒りを燃やして滅ぼそうとしているのでしょうか。私たちの罪を一つ一つ私たちに示し、私たちが泣いて赦しを乞うのを待っているのでしょうか。
しかし、今神は私たちにこう呼びかけています。「この罪の力から解放されて、元の姿、非常に良かった、素晴らしい、美しい、その姿に戻ろう!そして、私との愛の関係に戻ろう!」
あるクリスチャンは言います。その関係に戻るには、自分の罪を洗いざらい告白しないといけない。あなたの性的指向性を変えなければならない。変えてもらえるように神に頼まなければならない。
そんなことはありません。神との愛の関係に戻る手段は、イエス・キリストを信頼し、イエスが私たちを罪の世界から解放してくださることを信じることです。私たちは「罪の力という世界」に囚われていますが、イエスに信頼するということは、「イエスの愛の世界」に身を置くということです。「罪の力という世界」に住んでいる私たちには、「イエスの愛の世界」に引っ越しをし、そこに住むということは不安に思えます。
パウロという人は、「イエスの愛の世界」に身を委ねるとはどういうことかをこう語っています。
ローマ8:38-39
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
教会とは、この「私たちを引き離すことはできない主キリスト・イエスにある神の愛」を必死になって示すところです。もちろん、この世界にある限り、教会やクリスチャンは不完全にしかその愛を示すことはできません。天満レインボーチャーチは、その神の愛を自分たちの持てる力で、皆さんに示すために、全力で「神の愛の世界」に行きたいと思います。天満レインボーチャーチに興味のある方は、是非ご連絡ください。
祈りましょう。
イエスは私たちに「神の善と人間の善」を混乱しないように教えてくださる方です。
どうすれば、この罪の力から解放されるのでしょうか。そこがキリスト教の核心です。この罪の力から解放される
ここからは、先週お話ししました「物語式聖書の読み方」の中で理解されている罪についてお話ししたいと思います。
人間の内にある神のかたちが壊されたという意味で、わたしたち人間は罪の状態にあると言えます。
しかし、「人間が罪の状態にある」ということは、一人一人の人間が悪いことをするというだけの意味ではありません。「罪」は「人間を罪の状態の奴隷とする宇宙的な力」という意味もあります。これを宇宙的な力を支配しているものをサタンとか悪魔という人もいます。これが今人間が置かれている状況です。私は、神が創った人間らしく、愛に溢れて生きていたい、愛されたいと思います。しかし、それが十分にできない自分を知っています。むしろ、自分の欲が優先してしまうこともあります。これが罪の状態です。私たちはここに囚われているのです。
パウロは「人間を罪の状態の奴隷とする束縛」を、自分の体験とともにこう語っています。
ローマ7:15
私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。
「私たちを罪の奴隷とする力」に対抗する力はありません。私たちはそのような力に捕らえられているからです。では、どうしたら良いのでしょうか。そこにイエス・キリストを信じるという意味があります。イエス・キリストを信じるとは、そのチカラからの解放を意味します。イエス・キリストを信じるとは、神に信頼し、イエス・キリストの倣う生き方をする」という意味です。「救われる」とは、「罪の支配」「罪の状態の奴隷」から「神の恵みが支配される場所」へ移動するということです。
ローマ8:21-24
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。
それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
私たちは、この望みとともに救われたのです。
人間らしく、自分らしく生きたい。しかし、自分の欲にだけ従ってしまう。それが束縛です。そういう世界から解放されて、神の子どもになる。それが神を信じるということです。ただ神を信じても、心の葛藤はあります。しかし、完全に人間らしく、自分らしく神と共に生きることへの望みを持ち、神の愛にどっぷり浸かることが救われているということです。そこには、セクシャリティやジェンダーはまったく問題になりません。
そして、パウロは最後に、これでもかというほど神推しが止まらなくなってしまいました。
ローマ8:38-39
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
私たちが神を信じる、イエス・キリストを信じるとは、「罪の力の束縛」を離れて、「神の愛の世界に思い切って飛び込んで行く」ことです。
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