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子どもが欲しくないことに理由なんてないのです。


「子どもは考えていないんです」

結婚して数年経ち、実母と義母に話してみました。
そのことに触れずに温かく見守ってくれる母たちですが、私自身が罪悪感に耐えられなくなってしまったからです。
それなら、いっそ話してみよう、と。

二人とも「えっ、どうして?」「なんで?」とショックを受けた様子でした。

・・・「だって、結婚したら子どもを産むのが当たり前でしょ?」
「あなたたちの子どもだったら絶対いい子が生まれると思っていたのに」
「命が繋がっていくことこそが大切なのよ」
「不安や大変だと思っているならいくらでも協力するのに」・・・

あぁ、やっぱりそういう反応なんだなぁ。そっかぁ。。

子どもを欲しくないことに理由はない

子どもを欲しくない理由を聞かれても、実のところ、理由らしい理由なんて無いのです。

ただ、本当に、今までの人生で一度も欲しいと思ったことが無いのです。
要するに、興味がないのです。
強いて言うなら「なんとなく欲しくない」でしょうか。

子どもは、どちらかといえば苦手です。
でもそれが決定的な欲しくない理由にはなりません。

私にとっては、食べものの好き嫌いと同じくらいの感覚。

「牛肉?まぁ食べられないこともないけど好んでは食べない」
と同じくらい、
「子ども?うーん、特に積極的に欲しいとは思えない」、
それくらいシンプルです。

幸いなことに、どちらの母も理解しようと努めてくれました。

「これからの社会は育てるの大変だからね、その選択も良いと思う」
とか
「まぁ、でも、子どもは授かりものだから!授かった時は協力するからね」
とか。

でも、母たちの回答にどこかモヤモヤしている自分がいるのです。
あれ?私の気持ちは関係ないんだな、と。

伝わらない気持ち

たとえば、
「赤と青どっちが好き?」と聞かれたとして、「青が好き。赤はあまり・・」と答えるとします。

「どうして赤は好きじゃないの?」と聞かれて「うーん、なんとなく」って答えたとしても何も問題は起きません。

相手は「私も同じ!青の方が好き」だったり、
「私は赤が好きだけど・・そういう人もいるんだな」だったりと色んな気持ちにはなるだろうけれど、
最終的には『この人の好みは赤じゃなくて青なんだな』っていうところで着地するのだろうと思います。

でも、子どもの話になるとそうはいかないようでした。
私の本心である「なんとなく欲しくない」は許容できない。
不妊や持病など何らかの “できない理由” がないと納得できない。
それなら仕方ないねと思ってもらえる理由に、私の気持ちは入れてもらえないのです。

母たちは私の気持ちを少しでも理解するために、自分なりの落としどころを見つけ、何かしら自分が納得できる理由を作りたかったのだろうなと思います。そしてそれは私にとって、とても有難いことだとも分かっています。

でも、私の心の中は、
「あぁ、また私は “一般的な考え” に染まれないんだ。私の考えはやっぱり理解されにくいんだなぁ」
と孤独感がヒュッと心をかすめていきました。

何かが欠けているのだろうか?

私は、結婚してから「どうしても子どもを欲しいと思えないこと」にずっと悩んでいました。

生物には子孫を残したいという本能や、赤ちゃんや子どもを可愛いと思う働きがあるといいます。

でも、私はもともと子どもが苦手。
なので外で子どもを見かけても「あ!子どもだ可愛いな」と思ったことも無く。

私にとっては「子ども=可愛いもの、無条件に愛でる対象」ではなく、
「子ども=人間」です。本当に、ただ、それだけ。

実家の家族も、夫も、友人知人もみんな「ひとりの人間」として捉えています。「子ども=人間」と同じ感覚。

ご縁の深さに違いはあるけれども、名字とか、社会人とか、妻や嫁などといった社会が戸籍を作るために使っている名称で自分や誰かをとらえたことがありません。私にとっては、みんな「ひとりの人間」です。

年齢も、性別も、国籍も何も関係なく、同じ「人間」というくくり。
共に地球で生きる「人間」という種族。

でも、そんな風に思う私は、生物的にも本能的にも、人間として何か大切なものが欠けているのではないか、と悩みました。

血縁ってそんなに大切?

悩んでいた時期に、一番、恐れていたのは孤独でした。

いつか家族が一人ずつ亡くなっていって、もし最後に一人残された時、私は孤独に耐えられるだろうか?
今、子どもを産んでおけば孤独は回避できるんじゃないだろうか?と。

でも同時に「そんな理由で産んでいいのか?」という気持ちが湧きあがりました。自分の不安や寂しさを埋める理由で、自分の都合だけで、人間を生み出していいのか、と。

たとえ子どもを産んだとしても、未来はどうなるかわかりません。
私の思い通りになるとも限りません。

でも逆に、子どもを産まなかったとしても、孤独な未来がやって来るかどうかは分かりません。

どちらも不確定な、私の一方的な不安や妄想でしかないのです。

だから私は、将来の孤独への不安からではなく、いつか純粋に「子どもを育ててみたい」と思う日が来たら、養子をとって育てるのも良いなと思いました。もちろん、将来、経済的に困っていなければだけれども。
世界を見渡せば親を必要としている子どもがいくらでもいるし、もちろん日本にだって。

けれども、母たちは受け入れられないのです。

「なんで養子なの?血縁って違うよ。育てるなら自分の子どもじゃないと」

私の中でまた「なぜ?」がムクムクと湧いてきます。

血縁ってそんなに大切?
たとえ跡取りが必要な家だって存続の為にどこかで養子をとっているものなのに。

確かに両親は私とこの世界を繋いでくれたありがたい存在ではあるけれど、私にとって血縁は、特別にご縁が強かったひと、という認識でしかありません。

血の繋がりよりも、同じ時代を生きている老若男女と助け合ったり、自分たちが生きている地球というホーム(自然)を大切にして生きたい。
それが私にとっては幸せなんだけどな、と私は思ってしまいました。

ちょっとだけ辛口なことを言ってしまうと・・

母たちに、
「子育てって死ぬほどしんどいから、自分が産んだ子じゃない限り、到底無理だよ。自分の産んだ子だからこそ意味があるんだよ」
と言われました。

確かに、一つの視点から見ればそうかもしれません。
でもそれは同時に、別の視点から見れば、他人の子を育てることにもまた別の意味がある・・とも言えるのではないでしょうか。

母たちに限らず、子育てが大変とか、夫への文句とか、社会への不満をよく聞きますが、でも、私はそういう方々を見ていると、
申し訳ないのですが「子どもを産む覚悟が足りなかったんじゃないか」と思ってしまいます。

きっとものすごく大変なのであろうことは、想像できます。
不満を言いながらも、一生懸命、子育てされている方がたくさんいるだろうということも想像できます。

それでも、人間を一人育てあげることの責任の重さって、やっぱりあるんじゃないかと私は思うのです。

だから、それ相当の覚悟をもって臨むのが子どもを産むことであり、人間を育てることなのではないか、と私はそういう認識を持っています。

お産が命がけになろうが、授乳で徹夜の日が続こうが忍耐していくこと。
夫婦不仲を子どものせいにしないで、夫婦喧嘩を決して子どもに見せないこと。周りのせいにするのではなく、自分も人間的に成長していくこと。

そして何より、母親自身が幸せに暮らしていくこと。

「子は鎹(かすがい)」なんて言いますが、鎹にされた子どもが、きっとどれだけ自分を責めて傷付くことだろうか、と。子どもは幸せな家庭を求めていると思うのです。

ちょっと辛口なことを書いてしまいましたが、
子育てに一生懸命取り組んでいるお母様方を見ると「お疲れ様です」という気持ちになりますし、世界中の子どもたちが「生まれてきてよかった」と幸せに生きて欲しいという気持ちは、私の中にもあります。

自分自身が子どもを産み育てないとしても、
地球の自然を守る意識をもったり、
人とのつながりを大切にしようと努力したり、
子どもたちが幸せに暮らせる環境を作っていけるよう、私に出来ることをしていきたいという気持ちです。

母たちの気持ちを想像してみる

正直なところ、母たちの気持ちは、私にとって理解しづらいものです。

親の期待を満たすために産むものでもないと思っていることもあり、
なかなか母たちの気持ちに共感することも難しく、
私が悩み始めた頃は、

「自分で育てる訳でもないのに、なぜそれほど孫が欲しいのだろう?責任なく可愛がれる対象が欲しいだけではないのか?」

ということをよく思っていました。

でも、母たちの気持ちになって想像してみると少しだけ見えてきたのです。

それは、世代の価値観。

『結婚したら子どもを産んで、その子どもが大人になって子どもを産んで、自分はおばあちゃんになって、子どもと孫に囲まれる人生。それこそが幸せ。』

そして、この価値観は全世代が持っているものだし、それが当たり前と考えている・・いや、思い込んでいる?でもそれは自分を支える価値観でもある。

だから周りの人がみな孫と過ごしているのに・・
それが「幸せな人生」なのに・・なんで自分の人生はそうならないの?
自分が孫を得て幸せな人生にならないなんて信じられない、と、
それくらい強固な価値観なのかもしれない、と思いました。

「私の気持ちは理解されないのだな」と孤独感に苛まれた私と同じように、
母たちも「おばあちゃんになってみたかった」という寂しさがきっとあるのだろうな。
そして、その寂しさは、母たちの心の中にもヒュッと吹きぬけていったのだろうな・・・そう思うと、私も心が痛みます。


もう一つは、母親になった者としての価値観。

『子育ては大変だったけれども得られるものが多かった。子どもを産んでよかった。良い人生だと思う。女性に生まれたのだからこの幸せを味わうべき。』

ひとりの人間として、子どもを産み育てることで幸せを得た母たちの人生に私も心が温まります。幸せな人を見ると心がホッとする時のように、よかったねって、ありがとうっていう気持ちになります。

でも、強要されてしまうと、ちょっと大変なのです。
「どうして子どもが欲しくないなんて言うの?あなたにもこの幸せを味わって欲しいのに」という、母たちの視点から見れば、私の幸せを願っての助言なのだろうとは思うのですが・・。

だから「私は子どもがいない人生を選んで幸せなんだよ」と言っても理解されにくいのかもしれません。
母たちにとって「幸せ」の条件には子どもが絶対に必要不可欠で、母親になった者にとっては「子どもがいない人生」が想像しにくいのだろうなと思いました。

孫が欲しい母たちと、子どもを望まない娘(嫁)。

求めているものは違えども、心にぬぐい切れない何かがある様子は、まるでお互いに鏡を見ているようです。

世代の価値観も違えば、これまでの人生で培ってきた価値観も違うのだから、共感し合えなかったりお互いの気持ちが平行線をたどるのも、仕方ないんだろうなぁって思いました。

まとめ


母たちの世代の頃よりは、子どもを産まない人生を選ぶ女性がクローズアップされるようになってきていて、多様な生き方を自由に選べる時代になってきているとは思います。

「子どもが欲しくないことに理由はない」
「なんとなく子どもは望んでいない」

私は何年も、罪悪感だったり、自分には何か大切なものが欠けているのではないかと悩んで来ましたが、自分に嘘はつけませんし、もうこれは仕方がないことなのです。

そして母たちも、私と同じように、自分の価値観に素直に生きている。

だから、お互いに求めるものが違っていたり、話が分かり合えなかったりすることも、もどかしい気持ちを抱え合ってしまうのも、すべて仕方ないことなのだと思います。

子どもに関しては完全には分かり合えないかもしれない、でも、どちらの母もその年数を生きて来た「ひとりの人間」であり、私も同じように「ひとりの人間」であり、わたしにとっては大好きな母たちであることには変わりありません。

だから、子どもに関してのすれ違いだけに囚われ続けて、母たちのことを見失いたくない。
せっかく今回の人生で出会えたのだから、相手をしっかりと見つめ、ともに過ごす時間は大切にしていきたいと思うのです。

私だけでなく、完全には理解し合えない寂しさを誰もが抱えて生きているものなのかもしれません。

人生の意味は、若輩者の私にはまだ分かりませんが、
分かり合えないまま、それでも一緒に生きていった先に何か答えがあるのかもしれないなって思いました。

頭の中を整理できました。
お付き合いくださり、ありがとうございました。


★カバー写真は
あふれでる ✯*・☪.。 bhleu さんの「∞ MinamotoArt ∞ ®~新しい世界へ 」を使わせていただきました。温かみのある色彩やキラキラした泡が魅力的で、でも境界線なくひとつに溶け合っている様子が素敵な写真だなと思いました。ありがとうございます(*^^*)

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