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106ページ3行目 まとめ その2

承前。長文になりすぎて深夜になっちゃったので分割した後編です。前編はこちら。

  さて、では残り、行きましょう。

16冊目

 これの引用元はこちら。

『冬の夜ひとりの旅人が/イタロ・カルヴィーノ』

 ものすごい牽引力で連れまわされるそぞろ歩き小説。冒頭から引っ掛かりのある文章で「ただならぬ世界ですよ」という感じで誘われ、ついていくと急にどこにいるのかわからなくなる。

 初見時、なんだこれは?と思った。わたしはこの本を読み、そこに出てくる主人公と思しき人物もまた本を読んでいる。わたしは主人公の目を通して彼の読んでいる本を読むわけだが、その読書は中断される。

 経験あるだろうか。知人の家、親の本棚、場末の図書館、どこか自分のテリトリーではない場所で、そこにあった本を読み始める。それはとても興味を引くストーリーで、あなたはワクワクして読み進める。すると本は途中で引きちぎれていて、面白くなってきたタイミングでその続きが読めない。

 この小説はそのもどかしさを満載した作品なのだ。これはもう表現自体がアートなのである。エンターテインメントを逆方向から攻める芸術なのだ。脈絡はどうなっているのか。文脈はどうなっているのか。そもそも脈はあるのか。小説とはいったいなんなのか。これを読んだことは強烈な小説体験であった。

17冊目

 これの引用元はこちら。

『ホメずにいられない/福野礼一郎』

 自動車評論家である福野礼一郎のエッセイ。どこまで真実なのか、フィクションなのかわからない。どれも事実のようでもあるし、さすがに脚色されているだろうとも思う。もうどっちでもいい。それぞれ一人の人物に注目した短篇エッセイを集めたエッセイ集なのだが、題材の人物がどれもものすごい濃さ。車にまつわるなんらかの領域で異様なほどの能力を発揮している人たち。それを軽妙な文体で描き出している。ここに登場する人物はいずれも達人だが極めてあやしい。このあやしげな人たちは実在するのだろうか。いや、実在するだろう。この本を開くとき、わたしは機械油のにおいまでも感じる。紛れもなく彼らはここに、存在している。

18冊目

 引用部分は「おやじ」というワードについて言及している部分。これの引用元はこちら。

『トイレは小説より奇なり/酒井順子』

 酒井順子女史のエッセイ。酒井女史についても土屋先生と同じく、どれを紹介しても良いと思った。かなり多くのエッセイが出版されていて、わたしも相当な数を読んだけれど、それでもまだ未読のものがたくさんある。とんでもない作品数。

 酒井女史は視点が独特で、おとなしい佇まいでありながら鋭い目でいろいろなことを見ている。そしてそれを極めて軽い文体で描き出す。世界のあれこれに鋭く光を当てて暴き出すわけだが、その視点の鋭さと軽妙な文体のバランスが見事。なんのストレスもなくするすると読めるのだがかなり痛烈なことを言っていたりする。なお、わたしは小説ではない文章を書く際に、酒井女史の文体を意識した文章を書くことが多い。(この文章は違うけれど)

19冊目

 人名に特徴のあるこの引用。これの引用元はこちら。

『クラッシュ/J.G.バラード』

 衝撃の一作。SFの名手バラードが書いた圧倒的な小説。表紙からわかるように、自動車事故である。クラッシュ。自動車と自動車が衝突する。個と個だったものが潰れ、千切れ、バラバラになる。冷却水や潤滑油、もしかしたら燃料などの液体が漏れ出る。そして。混ざり合う。

 自動車と自動車の衝突を「体液の交換」とし、セックスとして描く。なんなんだこれはいったい。小説とはかくも自由なものなのかという驚きに満ちている。この文章を読んでわたしの脳もクラッシュし、粉々になりながら散りばめられた言葉と混ざり合う。読書もまたセックスである。

20冊目

 引用部分のパワーがすごい。これだけでも読んでみたくなる、でしょ?
これの引用元はこちら。

『わたしは不思議の環/ダグラス・ホフスタッター』

 名著『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(以下GEB)のホフスタッターによる近年の著作。彼が一貫して書いているStrange Loop についての集大成的作品。もう追いかけているテーマがわたしの興味のど真ん中であり、ホフスタッターなくしてわたしもないぐらいの勢い。彼の著書はどれも、意識の迷路へと誘ってくれる。大ベストセラーGEBがやはり筆頭ではあるものの、こちらの方が新しい分、ホフスタッターの最新の考察に近いものなので今ならこちらを読むべきだろうとわたしは思っている。(彼の論旨に大きな変化はないのでGEBとこれで主張が異なったりはしていない)

21冊目

 コンピュータサイエンスとAIの周辺でよく出てくるような話が引用文に登場している。これの引用元はこちら。

『心はすべて数学である/津田一郎』

 論理学がコンピュータを実現し、論理演算に落とし込めるものはなんでもコンピュータに実装できるようになった。さて、人の心というものは論理演算に落とし込むことができるのだろうか。今のAIは莫大なケーススタディに基づいて判断を下す統計演算装置であり、心とか意識と言ったものからはだいぶ遠いところにある。それでもケーススタディだけで、意識を持っているようなふるまいだけはできる。問題はふるまいではなく、本当に意識のようなものを実装することはできるのか、という部分。この本は人の心の動きに含まれる数値演算的要素について紹介したもので、これによって何らかの結論を得るのではなく、ある種の視点を得られるような作品だ。これもきっとわたしの作品に何らかの影響を及ぼしていると思う。

22冊目

 これの引用元はこちら。

『国を救った数学少女/ヨナス・ヨナソン』

 スウェーデンの作家による小説。数学に強い女の子が大冒険を繰り広げる活劇小説。中学生ぐらいにおすすめしたい楽しい小説だ。文学的挑戦云々とかそういったものではなく、シンプルに魅力的なキャラクタとワクワクするストーリーを楽しめると思う。なお、このnoteのために23冊分の表紙を写真に撮ったわけだが、息子がそれを見ていて実にこの一冊だけ、「なにこれ、読みたい!」と言った。「トイレは小説より奇なり」よりもこちらだったことが少々驚きではあったが、おそらく鮮やかな表紙が良いのだろう。小学生でも高学年なら十分読めそうな作品。

23冊目

 ラスト。

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『凡人として生きるということ/押井守』

 映画監督の押井守さんが書いた新書。他にも「友だちはいらない」とか「コミュニケーションはいらない」など、広く必要だとされているものを不要だと言ったり、一般論へのカウンターみたいな著書をいくつも出されている。わたしは押井監督の映画が大好きで、ほぼすべての作品を見ているし大部分はディスクも所持している。関連書籍も大量にあり、小説(冗長で全然面白くない)やエッセイ等もほとんど持っている。そんな押井さんの著書からここではこれをチョイス。「凡人力」という言葉が面白い。押井さんが凡人なのかと言えば完全に変人だと思うが、ここでは「天才ではない」という意味で凡人だと主張している。わたしは押井守のほとんど信者であるが、彼が天才ではないという点には同意する。ただ、鬼才ではあるだろう。鬼才は凡人の皮をかぶってひっそりと暮らしている。鋭い目で世俗を見つめながら。

あとがき

 というわけで前編と合わせて23冊分の紹介にお付き合いいただき、ありがとうございました。いずれ劣らぬ名著ばかりだけれど、その影響力は計り知れないため、読んでしまって人生がおかしなことになっても責任はとれません。ご利用は思い切りと覚悟をもって、用法・容量を少々逸脱して自己責任でロケットダイブしてください。

 読書って本当にイイものですね。それではサヨナラ、サヨナラ、

 サヨナラ!

※いろいろパクリすぎ。敬愛する水野晴郎さん、淀川長治さん。永遠に。

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