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[戯言戯言日記] 取 捨 選 択

6月10日(水)

 半自動処理だ。人の脳は。

 いくつかの小説作品の中でもたびたび書いているけれど、人の認知能力や知覚といった領域に興味がある。

 感覚器官(目、耳、鼻、皮膚、舌など)はとんでもなく高性能で、膨大な情報を得ることができる。感覚器官は神経を通してその情報を脳に送るわけだが、脳はその全部を処理することはできない。そこでフィルタリングが行われる。このフィルタリングは半自動で行われる。

 例えば駅のホーム。人が大勢いてざわついている。そこへ列車が侵入してくる。大変な騒音だ。加えてアナウンスが「黄色い線の内側でお待ちください」とかなんとかわめいている。そんな中、隣にいる友人がわたしを呼ぶ。その声は、ちゃんと聞こえる。

 渋谷のスクランブル交差点。歩行者の信号が青になると、一回で数百人が交差点内に侵入する。それぞれがそれぞれの方向へ向けて進む。ふと、少し離れたところをよく知った人が歩いているのを見とめる。あ、声をかけよう、とそちらへむけて方向転換する。行き交う人を避けながらちゃんとかの人のところへたどり着き、声をかけることができる。

 膨大な情報から注目すべきものだけを取り出し、それ以外を全部捨てるというフィルタリングがほとんど無意識に機能する。捨てたものは意識に上らない。

 もっと少ない情報の中でも取捨選択は行われる。

 例えばテレビのドラマを見ている。クライマックスだ。登場人物たちはそれぞれに重要なセリフを放つ。どの一言も聞き漏らすわけにはいかない。集中してテレビを見ていると、寝ていたはずの子供が起きてくる。「おしっこ出ちゃった」「えっ!?」

 聞き漏らすまいと集中していたはずのドラマの音声さえ、子どものおしっこに吹き飛ばされる。脳は耳から入ってきた情報を瞬時に取捨選択し、子どもの声はドラマの音声よりも優先して届けられる。

 重要なのは、このフィルタリングは半分無意識に行われるということだ。重要な取捨選択だが、その選択を自分の意識で完全にはコントロールできない。雑踏の中の声のように、それに集中しようと意識することで取捨選択を能動的に行うこともできる。しかしそれとてもっと重大な事態、たとえば警報が鳴りだすなどすれば、そっちへ持っていかれる。

 この目で見たんだ!
 たしかに聞いた!

 そう。目は見たし、耳は聞いただろう。でもそれを脳は受け取ったのか。あやしいものだ。自分が何を見て何を聞いたのかは、目や耳といったセンサーが感知したかどうかではなく、脳がその情報を処理したかどうかにかかっている。脳の取捨選択によって捨てられたものは、認知されなかった情報だ。そして一般に、捨てられるものの割合のほうがはるかに大きい。

 見たと思っている情景には必ず見落としがあり、聞いたと思っている音には必ず聞き落としがある。むしろ、落としたものの方が大きい。

 どんなに見落とすまいとしても見落とすもの、どんなに聞き逃すまいとしても聞き逃すもの。わたしはそういうものに興味がある。わたしの世界はわたしが知覚したものでできている。とすれば、わたしが取り損ねたものが別の世界を構成しているという見方もできる。

 異世界というのは実は自分のすぐそばにある。そんな気がする。

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