「悔しい」を力にする方法

 昨年の春にニンテンドースイッチを買い、子どもと一緒にゲームをすることが増えた。子どものゲームへの姿勢を見ていて、上達や成長につながる悔しさと、そうでない悔しさがあることに気づいた。

 失敗は成功の母であるとよく言われる。だから失敗を厭う必要はないと。自分を振り返り、そのとおりであると思うのだが、失敗を糧にして成長できるかどうかは、本人のメンタリティにかなり大きく左右されるということがわかってきた。

悔しさはバネになるのか

 スポーツ選手などのインタビューでもよく聞く話だが、悔しさはバネになり、成長の源になる。失敗や敗北に悔しさを全く感じない人はなかなか成長しないだろう。が、悔しさを力にできない人というのも実はけっこうな数でいる。つまり悔しさは力になるのだが、そこにはメンタルのテクニックが必要で、それができない人は悔しさを力にできない。

 うちには子どもが二人いる。二人とも小学生の男の子である。(2024年1月時点)
 この兄弟のゲームプレイを見ていて、長男には伸びる要素があり、次男にはないことに気がついた。

 うちの次男はゲームに負けたときに生まれる悔しさが、そのまま「怒り」に変換されてしまう。たしかにゲームで思うように勝てず、何度も失敗を重ねるとイライラする。そのイライラは悔しさに発したもので、イライラの矛先は上手にできない自分である。この感情をうまく利用できると上達につながるのだが、次男はそうなっていない。苛立ち、腹を立て、その矛先が外へ向く。うまくできないのは自分ではないなにかのせいだ、という責任転嫁が行われる。自分の操作精度の低さを棚に上げ、コントローラが誤動作している、ゲームプログラムに問題がある、自分ばかり狙われている、といった話にすり替わり、外に向けて怒りちらしている。そしてその当然の帰結として、「もうやらない」となって投げ出す。

 もう一つ気づいたことがある。それは、次男は「結果しか見ていない」ということ。対戦ゲームの場合、勝負の結果としての勝ち負けがある。いわゆるリザルトで、それだけ見れば「勝ち」か「負け」しかない。しかしゲームはじゃんけんではないため、いきなり勝ち負けが決まるのではなく、ゲームプレイがあった上で結果が出る。次男はこのプレイ内容がどうであったかが全部無い状態で、結果だけを気にしている。プレイ内容に評価できる点があってもそれは目に入らない。「ここはうまくできた」「この動きはよかった」などがいろいろあり、その上で「でもここでミスをした」「ここで相手がとても良い動きをした」などの要素によって「負け」がもたらされる。

 勝ち負けにこだわりすぎるとその詳細がどっかへ行き、次へ繋げられるはずのいろんな要素が全部無駄になり、負の感情だけが爆発する。結果、すべては人のせいであり、自分は全く悪くないのに負けるという意識になり、あらゆることが理不尽に思える。こうなるともはや成長は期待できない。

 ゲームを通じて、なにか生きていく上でのものすごく大切なことを教えられるような気がして、怒り散らす次男をなだめて話をする。まず「いいところを認めよう」という話。勝敗としては負けたかもしれないが、いい部分はたくさんあったよね。もちろん負けは負けだけど、何が良くて何が良くなかったのか、ちゃんと見極めないと次も負けるよ、と。しかし冷静さを失っている次男は「もういい!どうせ勝てない」と言って聞かない。どれだけ良かったところを挙げても「でも負けた」の一点張り。うーむ。

 性分というやつが大きく影響しているので難しいのだけれど、ここの感じ方をなんとかしないと本当になにも成長しないのでなんとか伝えたい。新しい技を練習しようと思えば失敗もするわけで、負けながら練習することはとても大事だ。もちろん結果がどうでもいいわけではないけれど、目的意識をどこに置くかで、何を「結果」とするかも実は変わってくる。ゲームのリザルトだけが文字通りの「結果」ではない。

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