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世界に一人だけのわたし

 これまでわたしはこの名義ではないもののいろいろなところに文章を書いてきて、数年前に小説を書き始めてからはこの名前でもそれなりに文章を重ねてきた。不思議と、小説を書き始めるまでは気にならなかったというか、気にしていなかったことが、小説を書き始めたら気になるようになった。

 それは、「わたしにしか書けないものを書けているのだろうか」ということ。

 書き上げたものに対して、これは自分らしいのだろうか、と振り返ることが常になった。そしていつも、その答えははっきりしない。これは自分らしいのだろうか。わからない。自分しか書けないものだろうか。わからない。

 ごく最近、この霧が晴れた。

 自分らしいものが書けたかどうかは、実は書きあがった時点でわかっていた。書かれたものがどうかは問題ではなく、どうやって書いたのかが問題だと気づいた。

 どの程度自分と向き合って書いたのか。それが問題だった。自分の内側に隠れている自分。普段の自分が隠そうとしている自分。それは汚い自分だし、卑怯な自分だし、姑息でみみっちく、唾棄したくなるような自分。でもまぎれもなく自分。そういうやつが隠れているところへ降りて行き、そいつを引きずり出して対面する。こいつをやっつけることができれば聖人君子になれるかもしれないが、そんなことが可能ならとっくにわたしは聖人君子なのだ。そして聖人君子が書くような小説は、おそらくまったく面白くないだろう。

 自分のダークサイドを固めたダークプリキュア的な闇の自分と対面し、これを殲滅するのではなく対話する。湧き上がる嫌悪を封じ込めずに、その嫌悪すべき自分もそいつを嫌悪している自分もどちらも自分であり、その矛盾の総体こそが自分であると認める。

 そのようにして書いたものかどうかということが問題だった。これまで生きてきた道に、忘れたいような過去もある。それを忘れれば少し楽に生きられるけれど、自分の小説は書けまい。なんで小説なんか書き始めたのか。それは書かないといられない何かに出会ったからだ。自分の内側にある毒々しい何かに。

『ライ麦畑の反逆児/ひとりぼっちのサリンジャー』という映画の中で、「なぜ書きたい?」という問いに、サリンジャーは答える。

「僕はいろいろなものに腹が立つけど書けば思っていることがハッキリする」

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 怒りを感じる自分との対話だ。それを物語にする。なんの反応も得られず、名声も得られないかもしれない。それでも書くのか、と問われ、サリンジャーはこのシーンではそれに答えないけれど、結局彼はその後、隠遁生活に入ってどこにも発表せずに小説を書き続けたことは広く知られている。

 なお余談だがこの映画については前にレビューを書いている。この映画は作家を志している人は必見と言えるだろう。得るものがたくさんあるはずだ。

 わたしの生きてきた時間はわたしだけのものだ。同じように生きた人は他に一人もいない。それは誰でもそうだ。まったく同じ環境で成長してきた一卵性双生児でさえ、別の個体である以上完全に同じではない。

 そのようにして唯一無二の、別段特徴が無かったとしても唯一無二の人生を生きてきた自分は、他の誰でもなく自分だ。その自分と向き合って対話したものを書けば、それは他の誰にも書けないものだ。その対話が不足していたり、虚栄的何かに邪魔されたりすれば、とたんに価値は暴落し、安っぽいものになり下がる。書いたものがダメなのは、自分との対話に嘘があるからだ。逆に言うと、ダメなものを書くことで、自分がどこで自分に嘘をつくのかがわかる。きっと倒すべきはこっちの自分だ。ダークサイドと向き合うことを拒絶する自分。でもたぶん、この自分も倒せない。これを倒せたら強い人間になれそうだけれど、そうじゃないからこその自分。虚栄心があり自己顕示欲があり、欲にまみれている。時に無欲に見せたいといういびつに絡まった欲求まで湧き上がる。

 自分のマイナス面をほじくり出すと、自分は本当に嫌な人間だと思える。こんな嫌な面がある。こんな嫌な面もある。どこまでも鬱陶しく、殺意さえ湧く。そこがスタートラインだ。そこまで行きついてまっすぐ見たくない自分と肩を並べたとき、世界はまったく違うものに見える。ああそうか。これが小説なんだ。とたんに、大好きなあの人のあの作品も、あの人のあの作品も、みんなこうして書かれたのではないかという気がした。

 自分らしい作品をどうやって書けばいいのかがわかり、「小説とはなにか」という問いへの答えがアップデートされた。何か大事なことのしっぽをつかんだ気がした。いばらの道ではあるけれど、ドMなので問題ない。問題はないけれどやはり体力は要る。突き付けられる自らの変態性と倒錯した欲求。温厚な笑顔のすぐ下に隠れた憎悪と殺意。おぞましいドロドロを包み込む不謹慎な笑い。

 なんのことはない。自分はいつだってそこにいたのだ。おぞましい自分らしさを封じようとしていたのは自分自身であった。

 文章力というのはある種の技術なのでいくらでも磨くことができる。しかし文章力をいくら磨いてもいい小説は書けない。文章力が向上すればなんだって書くことができ、それっぽいものをでっちあげることは可能になる。小手先で舌先三寸、それっぽいものは書き散らせる。

 でも。偽物はバレる人にはバレる。特に、本物を書いている人にはぜったいに通用しない。わたしの心にぶっ刺さる小説を書いているような人たち、わたしが尊敬してやまない人たちは、そういうインチキを見破るし、騙されないだろう。わたしは自分が尊敬している人たちに軽蔑されるようなものは書きたくない。

 わたしにしか書けないものは技巧を凝らした果てではなく、傷だらけになってでも自分自身と向き合ったその先にきっとある。

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