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そのエクスキューズやめませんか?

 間違っているかもしれませんが。反対意見もあると思いますが。専門的なことはわからないのですが。

 そういった前置きをしてから何かを述べるということ、ありませんか?

 あるかもしれませんね。わたしにもあるような気がする。なるべくしないようにしているつもりではあるけれど、ついついやっていることもありそう。わたしのnoteをさかのぼるだけでももしかしたら、見つかるかもしれません。

 でもその前置き、いる? と思うのですね。

 間違っているかもしれない。当たり前のような気がする。誰のどんな意見であっても、それは間違っているかもしれません。最初から「間違っているかもしれない」と思って聞くわけですね。どの意見を信じるのかはその人次第。間違っているかどうかが問題なのではなく、その意見を信じるのかどうかが問題。ということは、それは聞く側、読む側の問題。受け手の問題だということになります。発信者がわざわざそんなことを断る必要はないのではないか。

なぜ発言するのか

 何らかのエクスキューズを置いたうえで何かを発言するとき、なぜその発言をするのでしょう。求められたからでしょうか。何か意見を言えと言われて発言しているのでしょうか。

 多くの場合、間違っているかもしれないと言いながら発言(あるいは発信)しているそれは、しなくてもいい発信です。本当に間違っているかもしれないと思うのであれば、黙っていればよろしい。逆に、発信するのであれば、間違っているかどうかはさておき、自分は信じているのだ、という迫力でもって発信した方が良い。自分も信じていないことならそんなことは言うべきでも書くべきでもない。無用だからです。

 先日、Twitter でこのような発言をしました。

 ここでは「創作」という言葉を使っていますが、厳密には創作を「発表する」という行為についての見解です。発表するということは、それがどんなに穏やかで柔らかいものであったとしても、一石を投じるということ。波紋は呼ぶことになるし、逆に、なんの波紋も呼ばないのであればそんなものを発表する意味はないということ。誰も受け取らなかったということに他ならないからです。

 だとすると、何かを発表するという行為は、それなりに覚悟を持って行うべきであるということです。そこにごちゃごちゃエクスキューズを付けることは、自分の責任感を鈍らせる。発信はするが責任は取りたくない。そういう意思表示に見えてしまう。

 もとより間違っている可能性はあるし、誰かを傷つける可能性もあるし、怒りを買う可能性もある。それでも発信する。そこには覚悟があるし、言うべきであるという意思がある。あるから、発言するわけだ。

誰に向けたエクスキューズなのか

 何らかの発言にエクスキューズを付けるとき、それは誰に向けたエクスキューズなのだろう。前述のように、こんなことを言いながらわたし自身もエクスキューズを立てたうえで発言をしたことがあります。それを振り返って考えてみる。そのエクスキューズはいったい誰に向けたものだろう。たとえば「間違っているかもしれないけれど」と前置きするとき、それは誰に向けたものだろう。わたしよりも正確な知識を持った誰か。そういう人に間違いを指摘されることを想定しているのだろうか。

 否。そうではないと思う。エクスキューズの向いている先は自分だと思うのです。わたしは、誰かに間違いを指摘されたときに、自分が傷つきたくないからエクスキューズを置いたのだ。あなた間違ってますよと言われたときに襲ってくる恥ずかしさ、みっともなさ。そういったものから目を背けるために、「最初から間違ってるかもしれないと言っておいたもんね」と言うための予防線を張る。

 そのことに気づいたとき、ハッとした。こうしてわたしは、自分の発する言葉に対する責任を回避しようとしているのだと感じた。それは、言葉を操って創作を行おうとする者にとって、間違いを指摘されるよりもはるかに恥ずべきことではないだろうか。自分の言葉に責任を持たずして何が文芸なものか。やめよう。そう思った。セコいエクスキューズで無意味な自己防衛をするのはやめよう。そんなことをしていればわたしの言葉は力を失い、発する意味さえ無くなるだろう。そんな覚悟で小説など発表できようはずがない。

そういう意図はない

 似たようなエクスキューズに、「誰かを傷つけようとする意図はないのだけれど」といったようなものもある。これも、わたしはどこかで使ったことがあるような気がする。

 しかし自分が誰かの言葉に傷つけられたときのことを思い出してみてほしい。意図の有無など関係あるだろうか。意図がなかったと言われたら傷つかずに済むだろうか。

 まったくそんなことはない。殺す意図があれば殺人、なければ過失致死。法的にはそうであろうけれど、被害者が死んだという事実は動かない。死んだ被害者にとって、意図の有無など関係ない。知ったことではないのだ。

 意図があろうとなかろうと、わたしの発した言葉で傷つく人は現れる。究極的には、意図なく誰かが傷つくことを避けたいのであれば、やはり黙っているよりあるまい。何かを発するということはそういうことなのだ。そういうつもりではない、と言いたいことはあるだろうし、そのような状況になれば説明責任もあるだろう。しかしそれで物事が解決するわけでもない。傷ついた人が傷ついた事実は消えない。その時々で真摯にやる以外に道はない。

 発言の前に置くエクスキューズはすべて、転ばぬ先の自己弁護であろう。指摘される前に謝っておく的な姿勢にすぎず、本人はそれを「誠意」のつもりで置くわけだが、ここに書いてきたように、それは逆に誠意の不足を表明することに他ならない。言葉に対して誠意ある態度というのは、指摘される前から自己弁護をすることではなく、堂々と発信し、問題を指摘されてそれに同意できる場合には潔く謝罪し、撤回するというようなものであろう。もちろん、同意できない場合には誠意をもって反論すべきだ。指摘する側にも無論、同じだけの覚悟は必要だ。人が覚悟を持って発信しているものに異を唱えるわけだから、相応の覚悟を持って行う必要がある。

 そのような応酬こそが物事を前進させるのではないだろうか。昨今の政治のシーンを見ていれば、だれもかれもエクスキューズにまみれた発言しかせず、結局のところ何も言っていない人ばかりだ。問題を指摘する側はただの野次に成り下がり、反論もまた罵りの域を出ない。だから物事は一歩も前進せず、政は行き詰っている。

 覚悟を持った言葉の応酬。それこそが「対話」であろうし、言葉という道具の持ったポテンシャルを発揮させる可能性を秘めている。変なエクスキューズを置くのはやめて、堂々と発信しよう。意見など来年には変わっているかもしれない。でも今、それを信じているということは揺らがない。信じて発信しようとしている自分のことを信じよう。そうやって放たれた言葉には、大きな力が宿る。わたしは今、そう信じている。

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