悔やまずに 省みる

 自分の進んできた道を振り返ると、あのときああしておけば、と思うことはいくつもある。

 ここでとても重要なのは、「あのときああしておけば」と思う今の自分は、いくつもの過ちを選んできたその道の先端に立っている、という事実。その「あのとき」にもし「ああして」いたら、今自分はここにいない。今自分が持っているあらゆるものが、別の形になっていたであろう。「あのとき」「ああして」いた自分がどうなったのか、それを知ることはできない。

 それでわたしは、なにごとも悔やまないようにしている。

 悔やまないようにしているというのは、「ようにして」いないと悔やんでしまうからだ。意識しないでも一つも後悔せず、常に前を向いて歩けたらよかろうと思う。でも、そんなことはできそうにない。後ろを振り返っては、あのとき別の選択を選んでいたら、と思ってしまう。そういう思いが姿を現したら、悔やまないようにする。悔やむことには意味がない。ただ、省みる。反省する。

 よく考えてみると、それが過ちだったのかさえ、定かではない。過去の選択によってマイナスの事態が生じると、どうしてもその選択を否定したくなる。でも、今手にしているプラスの要因も、その選択によってもたらされているかもしれない。手にしているものよりも失ったものにばかり目が行くのは、きっとわたしが欲張りだからだ。手にしているもののことは、失うまで気づかない。

 わたしはこれまで生きてきた時間の中に、いくつか大きく失敗したと思っている点がある。あの時別の選択をすべきであった、と思う分岐点がいくつかある。

 でも冷静に考えると、そこで今の道を選んだから得たものというのも、間違いなくある。あのとき別の選択をしたら、今持っているかけがえのないものは手にしていなかっただろう。どちらが良かったのかは永遠にわからない。

 過去を悔やむことは今を否定してしまうことにもつながる。いや、むしろ、今を否定したいからこそ、過去を悔やむのかもしれない。今の自分に不満のない人が過去を悔やむことは考えにくい。過去を悔やみたくなるのはきっと今の何かに不満があるからだ。そして不満を抱えると、満足は見えなくなる。空っぽの左手が気になると、右手に持っているものが見えなくなる。過去を悔やむあまり、右手に持っていたものをいつの間にか放してしまう。

 それでも後悔はやってくる。きっとわたしはどこか底の方でちゃんとわかっている。後悔は甘美なのだ。過去を悔やむことはセンチメンタルであり、そこに浸っているとどこか心地よい。何をどうしても変えられない過去に原因をなすりつける行為を後悔という甘美な膜で覆い、前を向かない言い訳にして体を横たえる。

 だめだ。悔やんではだめだ。必要なのは反省だ。あのとき選択を誤ったのであれば、今立ち止まってどうすべきか考えるのだ。

 わかっている。それはとても勇気のいることだ。だから悔やむほうがいい。楽だからだ。それを許しちゃいけない。なぜなら、今ここでそれを許したら、未来の自分がまた後悔の中へ自ら埋没するからだ。

 後悔はしない。それは意思だ。後悔し始めて、だめだめ、後悔じゃない、前を向くぞ、と意識する。あのときこうすればよかった、ではなく、あのときこうしなかったのだから、今からこうしよう、という具合に。

 もうできないことを悔やむより、今できることを探したい。自分にできることなどたかが知れている。本当か。自分がどれほどの力を持っているかなんて、本当に試したことがあるのか。試してもみるまえから知れていると決めてしまうのか。

 試してみてだめだったということはあり得る。実際わたしにはそういう経験がいくつもある。夢に辿り着いた人は言う。「続けていたから叶った」と。それはそうだ。辿り着いた人は全員、辿り着くまで続けていたというごくシンプルな事実に過ぎない。より長い時間続けてもたどり着かない人もいる。そのまま死ぬ人もいるし、さまざまな要因であきらめざるを得ない人もいる。

 努力してもたどり着かないこともある。続けても届かないこともある。それでも今、自分にできることをする。しなければきっと、未来の自分がまた悔やみたくなるから。

画像1


いただいたサポートはお茶代にしたり、他の人のサポートに回したりします。