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文章力は「怒り」に現れる

 正しく怒る。これは非常に難しく、大人に求められる重要な能力であると思う。温厚で怒らないということはそれはそれでステキなことではあるけれど、正しく怒らねばならないこともある。怒りという感情が一切ない世界はSFでよく描かれてきた。ディストピアとして。

 よく文章力ということが言われ、良い文章とはどういうものかという議論がされる。わたしが考える高い文章力というものは、「激怒」を正しく表現できるものだ。激怒。激しい怒り。猛烈に燃え盛る怒りの炎。感情の高ぶり。それを、罵詈雑言を一つも使わずに表現する。

 罵詈雑言は表現としては稚拙で歯牙にもかからない。ゴミみたいなものだ。

 ばかやろうくそったれふざけんなぼけ。だれがぼけじゃなめるなようじむしが。なんだとどのつらさげていいやがるくそなめむしのはいせつぶつめ。ふたことめにはくそかていのうのぼんくらのいかれぽんちのすかんぴん。

 わたしもよくやるけれど、文学の中でこういうものを書くとき、そこにある作者の意図は「諧謔」だと思う。つまりはギャグだ。罵詈雑言を原稿用紙何枚にもわたって並べ立てるというのはそれだけで芸術になり得る。諧謔として文学になり得る。読むのも書くのも好きだからわたしもよくやる。罵詈雑言とか卑猥で下品な言葉、差別用語などを羅列する。こうした言葉は、その言葉が直接持っている意味をそのままの意味として使おうとすると使い手の頭の悪さを露呈するにとどまる。ところが意味を解体して提示すると読み手の内側にある意味を語感で絡めとり、別の意味が生じる。わたしは文学とはこういう形で言葉と接するものだと思っている。

 このような罵詈雑言はどう見ても「怒り」の表現ではない。あくまで「笑い」だ。怒りを正しく表現できない低能な人物をあぶり出して笑いものにするための表現として、罵詈雑言は文学になる。逆に言うと、怒って罵詈雑言を使うしか手段を持たない人は笑いものにされることになる。

 かように、正しく怒ることは難しい。ちょっとイラついたとか、ちょっと腹が立ったとかいうレベルではない激怒。それを文章で書く。これは、激怒しながら頭は底まで冷え切っていて、地獄も凍り付くほどの冷たい心にならなければ書けない。高度な文章力を要し、同時に極めて高い自制心を要求される。そしてこのように怒った人をなだめることはもはや不可能であるし、罵詈雑言をわめき散らしている人よりもはるかに恐ろしい。

 怒りを表現しているものを読めば、その人がどの程度の文章力を持っているかたちどころにわかる。怒りを表現したものばかり読みたいわけではもちろんないけれど、怒りの表現を避けて通っているのが見えてしまうとその書き手にはあまり興味は持てなくなる。わたしの好きな小説家はみんな怒りが爆発している。もちろん常に怒っているわけではないけれど、怒りに満ちた作品を発表している。わたしはそういう表現をできる作家が好きだ。罵詈雑言を一切使わずに対象を焼き払うほどのエネルギーを文章に込める。それは技術的にも、精神的にも、並みの力ではない。

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