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空白のページ

 年内いっぱいでnote の連続更新をやめることに決めて、あと数日だけ続けよう、と思っているのだけれど、この数日がとても重い。書くことがない。

 わたしは紙のノートをかなりの量消費する。毎日思い付きや発見、考えたこと、わからないことなどを書いている。これはどこへ発表するものでもないから、とにかく書きまくる。重複も気にしないので、前に書いたのと同じことをまた書いたりもする。あとで読み直したとき、何度も書かれているものほど自分の中で重要なのだということがわかる。些細な何かが何度も書かれていたりすると、それがどこかに引っかかっているのだとわかる。体裁が整っていなくても、断片でも、重複していてもいいから、紙のノートに書くことがないという事態は訪れない。実際、ノートを1ページも書かない日はない。多い日は1日に20ページぐらい消費することもある。ノートもアイデア断片用(言葉を書き散らすA6のもの)、アイデアまとめ用(図などを書くB5のもの)、詩用(詩のアイデアと作品を書くA6のもの)、日記帳などいくつもあり、その全部を最低でも1日に1ページは書いている。これはすべて手書きなので、けっこうな量の字を、日々手で書いている。

 詩は最近毎日書いていて、とても短いもので、A6のノートで長くても見開きにページに収まるようなものだ。これを始めてみてわかったのは、詩というのは小説よりもはるかに短いところに多くのものが詰め込める、ということ。印象としては小説よりもかなり圧縮率が高い、という感じで、これは一本書くとかなり多くのアイデアが消費されるということでもある。小説一本分のテーマが10行の詩に入ってしまったりする。するとそういう濃縮された詩を何本か書くと、言いたいことは全部言ってしまった感じになる。それでも書き続けていると、ずっと同じことを言っている気がしてくる。それが悪いことだとは思わないけれど、不思議と自分で書いたものがそうだと作家の色ではなくマンネリなだけに思える。

 日頃考えていることは音声配信でも話し始めた。音声配信は結論が出ていないことでも話せる。思考の流れをそのままの速度で話すことができ、聞く人と同じ時間を共有できる。文章はどうしても書く方が読むよりも遅くなるし、読む速さも人によって異なる。けっこう大きく異なる。書き手と読み手の間には大きな開きが生じる。これが音声配信だと、発信する速度と受信する速度がほぼ同じになるので、文章では成立しないものが成立するようになる。

 こうした使い分けによって小説を書き、詩を書き、音声配信をしていると、それ以外にnote に書くようなことがほぼなくなってしまった。無理やり書こうとするとなんのメッセージもない純粋な日記みたいなものになり、冷蔵庫の代わりにベランダに出しておいたコーラが凍った話とか、自動販売機にペットボトルが挟まってえらい苦戦した話とか、ドトールで頼んだフレーバーコーヒーが洗剤みたいな味だった話とか、「だからなんなんだ」というようなものを書くしかない。

 書けないなら書けないということを書けばいい、とどこかで読んだ。だからこうして書いてみたけれど、この方向のものは何をやっても中原昌也にかなわない。彼など、書くことが苦しい、書けない、書きたくない、金だけほしい、みたいなことを書くのが作家性に昇華されてしまった例で、真似できるはずがないし、真似してそれが作風になるのもちょっといやだ。

 note の毎日更新は続けるのが難しいから年内でやめる(長くても100日でやめる)けれど、毎日更新には大いに意味があると思う。意味がないと思うからやめるわけではない。単純にわたしの手に余るからできないというだけだ。

 毎日更新には、毎日更新で無理やりひねり出さなければ書かなかったものが書かれる、という意味がある。この一点において、計り知れない意味がある。例えば今日のこれだ。こんなものは、毎日更新をする、という一見どうでもいい目標が無ければ書かれない。これに意味があるかどうかは甚だ疑問だが、同様にして捻り出したものが価値を生む可能性は多いにあるだろう。無理やりでもなんでも書く、ということには一定の意味は間違いなくあるのだ。

 でもこの書けないということを書く、というものはそう何度も続けられるものでもない。仮に今日から31日まで毎日「書けない」ということを書くようなマネはできまい。

 と書いてみて、五日続けて「書けない」という話を書き続けたら、それはそれで何らかの異化効果を生むような気もしてきた。

 これだから文学はやめられない。

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