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[小説]テスト・フォー・エコー 第七話

「あの喫茶店だ」

 唐突に部屋に響いたその言葉を発したのがおれであることに、少し遅れて気が付いた。あの喫茶店。そう。横山とよく行ったあの店だ。茅ヶ崎時夫と田神修一が同一人物ではないということを知っているのはいまや横山だけだ。横山が鍵なのは間違いない。なんとしても彼に会わなければならない。可能性があるとすればあの店だけだ。おれはふらつきながら身支度を整えて家を出た。ヘッドホンもしていないのに頭の中には目覚ましのあの曲が鳴り続けている。めまいのする映像だ。誰かおれの声を聞いているか。エコーのテスト。おれの声は誰かに届いているのか。エコーのテスト。聞こえていたら返事をしてくれ。エコーを返してくれ。

 頭は混乱していたけれど身体は迷わずに駅へ向かっていた。いつも利用する地下鉄の駅に向けて歩く。どこをどう歩いているのか定かではなかったが、普段もそんなことは意識しない。意識せずともおれは迷うことなく駅にたどり着くはずだ。視界は歪み、音は近づいたり遠ざかったりしている。出社するのとは時間帯が異なるからか、信号待ちの人の群れにも、駅のホームにも見知った顔は見当たらなかった。といって、そもそも顔をまともに覚えているわけでもなかった。目にすれば見たことがあると判断できるだけで、当人を見ずにその姿を想像することは難しかった。日常の中で居合わせるだけの顔見知りなんて、知っているうちに入らないのだ。おれはよく知っているはずなのに初めて来るような気がする駅にたどり着いた。自動的に動く身体に乗って運ばれているような感覚だ。ホームに滑り込んできた地下鉄に乗り込む。何番線だとかどっち方面だとかどこ行きだとかあるはずだがよくわからなかった。いつものように動いたはずだから正しい列車に乗ったはずだ。いくつかの駅を過ぎたけれどどの駅の名前もはっきりしなかった。おれはどこからどこへ向かっているのだろう。なんという駅で降りればいいのかもわからなくなった。でもきっと問題はない。この田神修一の身体はそれを覚えていて目的の駅で降りるだろう。おれはただ乗っていればいいんだ。

 地下鉄を降りて地上に出るとそこは廃墟だった。公園を見下ろす電波塔は途中から折れ、大きな交差点に面したガラス張りのビルは骨組みだけになっていた。そこここに転がるがれきからは埋め込まれた鉄筋が突き出し、トタンの看板は紙のように破れている。傾いたビルの屋上では百貨店のマークが色褪せ、消灯した信号機は砕け、路上には打ち捨てられた自動車が放置され、電線はちぎれてぶら下がっている。どこかで見たような光景だったけれどどこで見たのかは思い出せなかった。おれは自分の意思とは関係なく廃墟を歩いた。自分の意思というのがなにかもわからなくなっていた。どこへ向かっているのかはっきりしなくなった。どこかの裏路地だったような気もするし、地下街に隠れるようにある仕事場だったような気もする。仕事。どんな仕事だったか思い出せない。おれはふらふらと廃墟を歩きながら地下街への階段を降りた。ほの暗い地下道には淡くガス灯のような灯りが点っている。ぽつりぽつりとけっこうな距離を置いてあるその灯りはどれも同じタイミングで揺らめいていた。近づいてみると炎ではなく電球でもLEDでもない不可思議なもので、不規則でありながら他と揃ったリズムで揺らいでいた。その灯りを追いかけるように進んで行くと、やがて点滅する古い蛍光管が見えた。古めかしいドアの上につけられた蛍光管はじぃーという音を立てながら不安定になり、一度消えてからぴんという音と共に点灯する、というサイクルを繰り返していた。じぃー。ぴん。じぃー。ぴん。じぃー。ぴん。じぃー。ぴん。じぃー。ぴん。蛍光管の光と音がおれを電気回路の中に閉じ込めたようだった。まばたきをきっかけに蛍光管の呪縛から逃れたおれは目の前のドアを見た。ドアには「情報発掘所」と書かれた真鍮のプレートが貼り付けてあった。おれはほとんど抵抗のないノブを捻ってドアを開けた。古びたドアはまったく音を立てずに開いた。細い通路を進むと一人分ずつ区切られた狭い個室が通路を挟んで互い違いに並んでいた。おれはその一つに吸い込まれるように入った。いくら考えてもここがどこなのか、おれはなにをしに来たのかわからなかったけれど、おれの身体はこの場所を知っているようだった。個室に入ると中には透き通った枠が浮かぶように取り付けられていて、その前に椅子が置かれていた。おれが慣れた様子で椅子に腰を下ろすと透き通った枠が白く光り、その中に情報が表示された。そこに表示されている文字はおれには読めなかった。でもおれの手はそれに触れて、いくつかの断片をつなぎ合わせた。判読できない文字の窓をいくつか組み合わせるとなんらかのデータが復元された。白く光るモニタの中央に、おれの顔が表示された。おれだということは分かったけれど、名前は思い出せなかった。おれの手は復元された顔の画像を隅によけ、次の断片をいくつか開いた。やはりどれも判読できない文字が並んでいる。おれの手はおれの意思から離れて勝手に動いている。妙な安心感があった。身体に任せておけば大丈夫だという気がした。手がいくつかの操作を行うと断片がひとつながりになり、今度は文字が表示された。test for echo。おれは軽いめまいを覚えた。聞き覚えのある言葉だ。test for echo。孤立。誰もいないところで虚空に向かって呼び掛けているイメージだ。test for echo。誰か聞いているか。おれの声は届いているのか。おれは立ち上がって個室から出てみた。通路ははてしなく続き、個室は無数に並んでいるけれど人はおれしかいなかった。ここはいったいなんなんだ。おれはなにをしているんだ。視界が歪んでめまいがした。誰かいないのか。

 細い通路は永遠みたいに続いていた。おれはここから出ようと通路を進んだ。自分がどちらから来たのかわからない。あてずっぽうで選んだ方に進んだ。永遠みたいだった通路は永遠ではなかった。しばらく行くと正面に古ぼけたドアが見えた。きっと出口だ。おれは間違っていなかった。ドアにたどり着き、ほとんど抵抗のないノブを捻ってドアを開いた。ドアベルが澄んだ音を響かせ、おれは薄暗い店内へと入って行った。馴染みの店員と目が合ったので人差し指を一本立てて見せた。店員はそれを見て頷いた。おれはいつもの奥のテーブル席に座った。水を持ってきた店員に頷きかけると、店員も頷いて去っていった。この店がなにかとても重要だったような気がする。二つ前の元号の頃からある店だ。今の元号も一つ前の元号も二つ前の元号も、どれもおれには思い出せなかった。店員が銀のトレーに黒光りするカップを乗せてやってくる。淡泊なのに店に沁みついた時間とともに飲むことで旨さが増すコーヒーだ。おれはこのコーヒーを求めていたんだったろうか。受け取ったコーヒーの水面を覗き込んだ。カプセルの周りに集まった救護班が真剣な表情で作業を進めていた。

「リリースします」

 カプセルにつないだ端末を触っている人が叫び、救護隊長が頷いた。圧縮空気の抜ける音が響き、あたりに蒸気が立ち込めた。開いたドアからカプセルの中へ首を突っ込む救護隊員たち。中から力なくうなだれる少女が担ぎ出された。

 急に身体が重力を受けて自分の体重を感じた。わたしの身体は何人かに抱えられて寝かされた。目を開いてみると辺りは見覚えのない景色だった。

「あ。目を開けました。彼女が目を開けました」

傍らにいた女性が叫んだ。年配の男性が駆け寄ってきて、ペンライトのようなものをわたしの目に当てた。わたしは眩しさで目をしばたたかせた。

「意識が戻ったぞ。バイタル確認」

「脈拍、血圧、呼吸ともに正常値です」

「大丈夫かい。私の言葉が理解できるかい?」

 わたしを取り囲んでいる中の一人が言った。わたしはその人の方を向いて頷いた。

 人だかりをかき分けるようにしてまた別の男性がわたしを覗き込んだ。見覚えのある顔だ。よく知っている人だという気がしたけれど誰だかはわからなかった。

「ヤイリさん、見てください。ミカが目をさましました」

 男性はヤイリさんと呼ばれた。その名前は知っているような気がした。

「ミカ、平気なのか」

 ヤイリと呼ばれた男性が言う。わたしはミカという名前だったろうか。違うような気がする。でもミカという名前にも聞き覚えがある。わたしの名前だったろうか。違うような気がする。めまいがした。

「ミカ、いったい何が起こった。何かを見たのかい?」

 なんの話をしているのだろう。わたしは自分がミカかどうかもわからないというのに。

「何が、起こった?」

 一瞬ヤイリが言葉を放ったのだと思ったけれど声を出したのはわたしだった。わたしからヤイリの声が出た。わたしを見下ろしていたすべての顔が息を呑むのを感じた。

「はははははは」

 高らかに笑い声をあげたのもわたしだった。

「わたしはエコーのようなもの。主体に呼応するもの。呼び掛けに応えるもの。放たれたメッセージへの応答。存在への回答」

 わたしが話す言葉を聞きながら、おれはわたしであることを拒否した。おれは田神修一。わたしを見下ろしているヤイリを演じている茅ヶ崎時夫にすべてを奪われた田神修一だ。わたしはエコー。違う。おれは茅ヶ崎、修一。茅ヶ崎。エコーのテスト。だめだ。呼び掛けてはいけない。エコーが、かえって来てしまう。

 わたしは茅ヶ崎時夫。田神修一のエコー。おれは。おれはわたしではない。

 おれの声は届いているのか。エコーの、テストだ。

《了》

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