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[戯言戯言日記]たくさんのわたしとわたし

4月27日(火)

 わたしとは何か、ということをだいぶ前から考えている。今日も考えている。だいぶ前からというのはもうここ30年ぐらいを指していて、思いのほか長い。

 わたしがどんな人間かというのはどのようにして決まるのだろう。それを30年近く考えているけれど、今のところの結論は、わたしとは、わたしを知るすべての人の中にそれぞれいるものである、というもの。これを読んでいるあなたは偶然この文章に出会い、わたしのことはまだ何も知らないかもしれないし、だいぶ前からフォローしてくださっていてnoteに書いているものはけっこう読んでくださっているかもしれないし、Twittterなどでも交流があったり、スタエフも聞いてくださっていたりするかもしれないし、Zoomでお会いしたことがあるかもしれない。あるいは実際にお会いしたことがあるかもしれない。それぞれの人の中にわたしのイメージがあったりなかったりする。そしてそれはひとりひとり全部、異なるものだ。

 例えばわたしには親がいる。幸いなことに今のところ両親ともに健在である。両親の間に私が生まれ、もう四十数年の付き合いだ。当然二人はわたしのことをよく知っているわけだが、父の中にいるわたしと、母の中にいるわたしは少し違っているだろう。もちろん、父の中にいるわたしも、母の中にいるわたしも、わたしが思うわたしと違う。

 わたしというのはそのようなあちこちに偏在するわたしのイメージの総体なのだろうか。あるいはすべてのわたしから等距離にある中間値みたいなものだろうか。もしかしたらわたし自身こそが本体で、他人の中にいるわたしは幻想にすぎないのだろうか。

 そのようなことを考え始めて30年ぐらい経つ。わたしが思うわたしと誰かの思うわたしは必ず違っていて、それが近いと「わかってもらえている」感じがする。でもそれは真実だろうか。「わかってもらえている感」というのは自分の真実をわかってもらえているのではなく、わたしが思ってほしいわたし像に近い、というだけではないだろうか。はたしてそれは「本当のわたし」に近いのだろうか。そもそも「本当のわたし」などというものがどこかに存在するのだろうか。

 どんなにわたしの思うわたしと違っていても、あなたのなかにいるわたしは、それがたった今この文章を読みながら想起された性別や年齢さえも異なるものだったとしても、やはりそれはわたしなのではないか。総体でも中間値でもなく、それぞれが全部わたしなのではないか。

 今のところわたしの結論はこのあたりにある。それこそ数えきれないぐらいのわたしが存在している。なんらかの形でわたしを知るすべての人の中にわたしがいて、あなたの中のわたしは例えば今あなたがこの文章を読んでいる間にも少しずつ変化しているだろう。

 note を始めてからしばらく、わたしのことを女性だと思っていたという人が多い。と、書くことで今、ここまでわたしを女性だと思って読んでいた人は「あれ、もしかして男性なの?」と思い、わたしの像を大きく書き換える必要が生じただろう。その女性として思い描かれていたわたしも、きっとわたしなのだ。正しいも間違いもない。わたしがアウトプットした何かから誰かの内側に生まれたわたし。それがどんなにわたし自身と異なっていてもやはりわたしだろう。

 わたしはそういうあちこちに存在しているはずのわたしに会ってみたい。性別も年齢も外見も異なる多くのわたし。会うことができたらさぞ面白かろう。

 生きている中で自分の選択によって分岐した「あのときこうしていたら」のわたしと出会う話は前に書いた。可能性のわたしと会ってみたいという思いがあったからだ。今は他人の中にいるわたしとも会ってみたい。そんなお話を書く日もやがて訪れるだろう。

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