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仮面の独白 #仮面おゆうぎ会 私的感想

 名前を伏せた状態で小説作品を投稿し、純粋に作品のみの力で技を競うイベント「仮面おゆうぎ会」が開催された。

 わたしもこれに参加し、想像をはるかに超えて楽しかったということを既に書いた。

 しかしこれまで、わたしはあまり出品された作品群についてコメントしてこなかったので、ここにまとめておこうと思う。

 ここに書くのは純粋なわたしの感想です。作品の紹介ではなく、批評でもない。それぞれの才能に嫉妬し、苦悶し、悶死しそうになりながら歯噛みして読んだそのときの思い。誰かのために書くのではなく、自分がこの気持ちを忘れないために、未来の自分のために残しておく意図で書きます。

 既に掲載期間は残すところ三日となっているため、各作品へのリンクは貼らず、感想のみを置きます。

 ではNo.1 から順に。

【No.1】 雨露つたい 骸は何処へ

 募集開始の直後に発表されたこの作品。あっけないほど短い作品は、練りに練られた文の連なりでできていた。二度、続けて読んだ。

 いきなりこれが出てくるのか。マイティ・ソーのハンマーで脳天をぶん殴られたような感覚だった。隅々まで行き渡った作者の意識。一つの無駄もない言葉。ハッとさせられる「そうか」と「上手くいった」。張り詰めた空気を緩める瞬間さえもすべてコントロールされ、一分の隙もない。

 なんてこった。わたしを隅々まで絞り倒しても出てこない感覚と意識。この領域にたどり着くことはできるのだろうか。

【No.2】 不器用な青春を夜に隠す

 女子会。女子に生まれなかったわたしが生涯体験することのないその空気が、文章から立ち上ってくる。露骨な性愛を描いていながらいやらしさがみじんもない。あっけらかんと放たれる奔放な言葉たち。「文学」においてともすると生臭さを出すために書かれるような内容が完璧に脱臭された状態で提示される。

 この現代的な感覚は自分の対局にあると感じた。ここに描かれているのはわたしを徹底的に裏返した感覚で、もっとも手が届かない領域という気がした。わたしは女子会を見たことがないだけでなく、こういう女子を見たことがないのだということを思い知らされた。わたしにはどうやっても書くことのできない世界がここにある。

【No.3】 アイリッシュ・パブで昼食を

 なんといううまさだ。最初の一段落で「違い」を感じた。アイリッシュ・パブの持つ日本においては異質な空気感。それに背伸びをせずになじんでいるヤスヨさん。わずか6行でこの人物の持つ独特の雰囲気を余すことなく伝えきっている。

「手練れ」という言葉が浮かんだ。「わたし」の視点を通して描かれる「ヤスヨさん」。その細かいしぐさの一つ一つが、破綻なく「アイリッシュ・パブで違和感なく馴染む女性」を表している。

ヤスヨさんはコーヒーカップについた口紅を指先で拭った。

 特にこの一文はわたしからは絶対に出てこない。こうした細かいしぐさの一つ一つが説得力を持って響くというのはタダゴトではない。

【No.4】 思い出を消さないで

 やられた。テーマもモチーフも、わたし好みだ。こうした方向性の作品を書きたいという思いがずっとある。しかし考えてみるまでもなく、5000字以内でかように鮮やかに着地させる技術がわたしには無い。

 するすると読ませる文章に油断していると訪れるラストの切り返し。心地よい読後感。ラストを読んだ直後にスキを押していた。同時に、これがかなり上位に来るだろうと感じた。誰が読んでも面白く、心地よい。

 これを読んだ時点ではわたしはまだ自分の作品を書き始めていなかった。こういう作品を書けたらよかったのに、と、自分が書き出す前にもう頭の中は過去形になっていた。しかし考えてみるまでもなく、このような鮮やかな作品は書けたためしがない。わたしの書くものは全般、山なしオチなし意味なし。いわゆる「やおい」である。こんなすっきりした読後感の作品を書けたらなあ。

【No.5】 『おはよう』を告げるネコ

 やさしい。中学生の少女とネコの交流。両親がいないときにだけ現れるネコは、少女の内側に存在する大人への萌芽のようなものだろうか。キキにとってのジジがそうであるように、黒猫は少女を大人へと導く。

 児童文学のようなやさしさでありながら、中学生という少々扱いにくい年頃の少女を見事な透明感で描いている。「中学生の女子」をこんな風に描けるだろうか。考えてみるまでもなく、わたしにはできない。心に刺さった小さなトゲはやがて大きな歪みを生む。この作品ではネコがそのトゲの抜き方を教えてくれる。ネコはきっと誰の心にもいるのだけれど、その声を聞ける人は少ない。その声を聞けない人に、このような小説は書けないのだ。

【No.6】 ワイルドサイドを歩け

 かつての担任の通夜で集った男たち。男子校の同窓会のような彼らの会話には、男子校のリアル、アラサー男性のリアルがみっちりと詰まっている。とんがってもつっぱってもやってくる社会の波。その中でどんどん削り取られる凹凸。やがてみんなでっぱりのない丸になる。あちこち丸まりながら、それでもこぶしを上げようとする男たち。

 会話の隅々まで全部実際に見てきたみたいなリアリティを持っていて、そこには確かに体温があり、切り付ければ血が流れるような生命感が満ちている。血の通った身体を持ち、しっかりと呼吸して確かに生きている。そんな男にしか書けない作品だと感じた。

【No.7】 声の告げる先

 何が起こっているのか少しずつ見えてくる導入。「うん」としか言わない相手に向かって言葉を投げる。それは一見一方通行のようであるけれど、「うん」が返ってくるだけでも一方通行とは大きく異なる。

「男やもめに蛆がわき女やもめに花が咲く」と言われる。でも夫に先立たれた妻に悲哀はないのか。無いこともないだろう。わたしも「旅する日本語」のときに夫に先立たれた妻の話を妻から亡き夫への書簡という形で書いた。亡くした夫を懐かしむ妻もいてほしいという願いもあった。

 ここに描かれている指輪というモチーフ。それは先だった夫と残された妻を、さらにゆめとうつつを、鮮やかにつなぐ円環だ。唸るしかない。

【No.8】 夕顔

 これが拙作。

 客観的に読んでみるとこれは軽妙な会話劇だ。不気味なほどイノセントな女と悪意のない巡査。

 朝、目を覚ますたびに、寝る前の自分と今目覚めた自分は同じだろうかと不安になる。姿かたちや声がまったく変わらず、昨日までの記憶を全部持ったまま中身が入れ替わったとしたら、それに誰か気づくだろうか。自分自身は、気づくだろうか。その疑問はもう30年ぐらい私を悩ませていて、思えばそんなものばかり書いている。

 途中のかみ合わない会話はなかなか面白い。しかしラストはいまいち鮮やかさに欠けるのではないかと改めて思う。これがもっと見事に着地したら、よりショートショートとして良いものになりそうだ。そこまでわかっていても書けるものではないのだが。

【No.9】 神さまの手ちがい

 タイトルに唸り、一行目でぶっ倒れた。タイトルと一行目で読者をつかむことができたなら、概ねもう勝ったと言っても差し支えなかろう。この作品は一行目だけでなく、隅々まで魅力が詰め込まれている。そこかしこに散りばめられた印象的なフレーズがチカチカと明滅するようにわたしの目を誘う。

 神さまによって持ち込まれる突拍子もない提案。それを少年はどうするのか。少年が少年なりにあれこれ考えて自分の結論を出そうとする様子がみずみずしく描かれている。ひねて大人びた背伸びではなく、あくまで自身の身の丈の中で精いっぱいを発揮しようとする少年の姿。

 わたしはだいぶ昔、たしかに少年であったはずだ。でもきっとこんなにまっすぐな少年ではなかったのだろう。この葛藤はとても描けそうにない。

【No.10】 笹原さんはおしえたくない

 これも手練れの技だ。一行目がうますぎる。

佐伯くんは優しい。だから、おしえたくない。

 おしえたくない。タイトルにもそう書いてある。タイトルの「おしえたくない」の主語は言うまでもなく「笹原さん」であるが、この一行目はどうか。

 この作品は「あたし」の一人称だが、その「あたし」をしばらく出さないことによって、最初のうちは三人称かもしれないという可能性を残している。挙句、タイトルは三人称だ。こんなことをわたしは思いつくだろうか。

 5分先の未来を見ることができる「あたし」。そのSF的設定を使いながら思春期の「恋」を描く。描写の細部に「あたし」の気持ちが宿っていく。一人称の醍醐味を余すところなく発揮した見事な文章。なんといううまさだろう。絶妙に配置されたキャラクタたちの想いがすれ違い、それを俯瞰しながら笹原さんの想いが宙に浮く。なんという手腕だろう。わたしはいつか、こんなものを書けるようになるのだろうか。

【No.11】 蛍売り

 一読し、呆然としてもう一度読んだ。

 なんだこれは。緻密に練られた構造。扱いの難しい題材。それらを描くのにふさわしい文体。

 難易度ウルトラSみたいな作品なのに、衒ったような臭さもなく、自然にまとめ上げている。こんなことをできる人がいただろうか。note で読んだ小説の中で、こんな味わいのものがあっただろうか。

 これを書いたのはプロだと思った。プロが匿名で参加してきたのだと。いや、思ったのではない。思おうとしたのだ。アマチュアにこれを書かれたら立つ瀬がないと感じたからだ。

 これは考えるまでもなく、どこをどのようにほじくり返しても、ふたを開けてひっくり返しても、どれだけ振り回しても、わたしの中から出てくる可能性のまったくない作品だ。逆立ちしても書けない。これほどのものがわたしの手の届く範囲から出てくることに驚嘆したし、震えた。興奮と恐怖の入り混じった震えだった。

【No.12】 夜空に舞う桜は

 これも冒頭から唸る。わいわい会話しながらの食事を終えての会計時。そこで何か本質的な話が出るということ、あるような気がする。この絶妙な舞台設定に唸る。

 物語は三十代で再燃する青春みたいな内容なのだけれど、にじみ出るようなリアリティがある。こうした作品を読むと、やはり小説において人生経験というものがもたらす力は小さくないと感じる。いかに手練れであろうと、やはりこの作品は二十代の若者にはなかなか書けないだろう。もちろん、「恋」をしない人にも書けない。

 印象的なラストシーンはわずかに匂いかけた二人の行く末を散らす。決して若くない二人のスタートライン。そこに持ち込まれそうになる過去のあれこれを桜がかき消してゆく。舞い散る花びらが劇画のように固定されて作品の表紙のように残る。映像作品を見たような読後感だ。

【No.13】 20日ぶり35回目

 プロポーズだ。プロポーズのシーンから始まる。が。

ああ、またか……。

 違和感がもたらされる。ん? というひっかかりだ。そして恋人は消える。どうやら文字通り、消える。いったい何が起こっているのかわからないまま、淡々と物語は進む。

5月15日の欄に「たぁくん サヨナラ」と書いた。

 いったい何事なのだろう。書かれている話は異様なもののように見える。なにしろ恋人が消えてしまうのだ。しかし、読み進めていくと何かじんわりと広がっていくものがある。

 何かを渇望し、頑張って手に入れる。手に入った瞬間願いは現実となる。切実な願いには未踏ゆえの巨大な価値があり、手にした瞬間それは「既に持っているもの」として価値が暴落する。そんなことはないだろうか。幸せを手にした瞬間は「幸せ」だがそれが日常になるとその幸せを感じられなくなる。そんなことはないだろうか。物理の世界でも力を生むのは不均衡だ。均衡は安定であり、安定は停滞を生む。

 ここにはいったい何が書かれているのか。表層のストーリーはその裏に何を隠しているのか。たくさんの余白を残した不思議な作品。読む人によって感じるものが異なるだろう。そういうものをこそ、小説と呼ぶのではないだろうか。

【No.14】 勇者とホストとハローワーク

 一人称で読者に向かって話しかけるような文体だ。18歳で提示される職業の選択肢。勇者か、それ以外。

 勇者が魔王と闘う。そんな世界観と全くかけ離れた要素が隣り合う。

「勇者になって、YouTuberになればいいんじゃん?」
このすばらしいアドバイスをくれたのが、元ホストのヤマギシさんだった。

 勇者でYouTuber という巨大なズレと、それを提案したの「元ホスト」というズレ。

 そしてそこからの急転直下。ありとあらゆる「ズレ」を詰め込みながら無茶苦茶が展開される。なんなんだこれは。

 ラジオ体操第二が持ち込まれたとき、かなわないと思った。ファンタジーから遠いものをあれこれ考えて詰め込む。ホストクラブはもしかしたらわたしにも捻りだせるかもしれない。でもラジオ体操第二は無理だ。さらに難しいのは、これだけの要素をあれこれ詰め込んだうえで5000字に収め、しっかりリフレインでまとめているところだ。なんたる手腕。

【No.15】 オレにマイクをくれ

 身に覚えがありすぎる。恥ずかしい過去。誰に恥じる必要もないほどまっすぐに挑んだはずなのに、いや、それゆえにこそ、恥ずかしい過去。その過去の自分が残した汚点みたいな手紙から始まり、姪とのやり取りを挟んで母の手紙へと至る。構成が巧みだし書かれている内容の説得力が半端ではない。実話だろうと思うほどに臨場感がある。

 付き合わない方が良い男性の要素としてかなり上位に来るのが「バンドマン」。この作品はバンドマンの男というのがどのようにしょーもないのかということが見事に書かれている。そしてそのしょーもない男の母親というものに対しても深い理解が感じられる。このわずかな字数の中でこれだけの実在感を持って人物を表現するのは相当難しいだろう。さらに、クスっと笑わせるような主人公の手紙から、ジンと胸が熱くなる母の手紙へとつながるバランス感。うますぎる。

 わたしにはこの主人公の男性みたいな経験がある。しょーもないバンドマンだったことがあるからだ。それでもわたしには、きっとこれは書けない。わたしが書いたらしょーもないだけで終わってしまうのだ。

【No.16】 約束

 田舎町の恋は、片方が都会へ出て破綻する。太田裕美が「木綿のハンカチーフ」を歌ったのは1975年。実に46年も前だ。わたしも生まれていない。

 ともすれば時代遅れにしか見えないような歌詞なのだが、この作品はそれを現代でも通用するような物語に仕上げている。もちろんここに描かれているような女性は少数派ではあろう。多くは、健気に待っていてなどくれまい。でもここに描かれた女性は、決してあり得ないものには見えない。

あなたのことを心から信じることはできなかったけど、あなたの言葉はずっと信じていました。

 このラストの言葉。これを読んで、誰かを信じるというとき、いったい何を信じているのだろうと考えさせられた。その人を信じるというとき、その発言を信じるという意味で使っているような気がした。でもここでは言葉を信じても人は信じられないと書かれている。そういうことはあるだろうか。ありそうな気がする。

 ひりひりするような切なさがある一方で、起こされる行動はささやかだ。コウキもユイカも、自分の繭に入ったまま相手と向き合っているような印象を受ける。ヤマアラシのジレンマが生む微妙な距離感。その心的距離に物理的な距離が加算され、修復できない隔たりと化すのかもしれない。

【No.17】 付け足されたエンドロール

 タイトルが見事すぎる。全部読み終えてタイトルに戻り、ああ、エンドロール、と思う。

 ラストシーン、斉藤由貴の「卒業」という歌のフレーズが脳裏に浮かぶ。

反対のホームに立つ二人
時の電車がいま引き裂いた

 何かの歯車がひとつ、うまくかみ合わなかっただけなのだろう。ある偶然がもたらした再会。なにか一つかみ合えば、まったく違う明日があったかもしれない。でもわずかなズレが決定的な幕を下ろす。最終電車が二人を引き裂き、戻れないエンドロールを置く。

 二人の何気ない会話の裏にはビンビンに駆け引きが張り巡らされていて、同じ着地点を目指せたはずなのにどんどんかけ違っていく。こんな会話を書けるようになりたい。

【No.18】 悲恋をこえて

 時空を超えたラブストーリー、などというとSFみたいだけれど、この作品は時代小説と現代小説をドッキングさせた意欲的な作品。実にあっさりと書かれているけれど時代小説と現代小説をどちらも書けないとこれはできない。しかも、5000字という制限がある中でこの構造に挑む意欲に脱帽だ。ネーミングセンスもわたしには無い感覚で新鮮に響く。

 かんざしをきっかけにして告白の機会ができ、二人の恋が始まる。それだけなら現実にありそうな話だ。身に着けているアクセサリーの一つが気になって声をかける。でもそれが気になったのは、ずっと昔の魂の経験に基づいているのだ、という着想は面白いし、それによって時代小説と現代小説がドッキングするという構造を生んでいることも興味深い。前前前世から僕は君を探し続けてたというわけだ。

 時代小説はわたしにはハードルが高く、まったく書ける気がしない。それを操れたらこんな風に幅が広がるのか、という驚きがあった。

【No.19】 多角形の月

 悶絶事案。タイトルと一行目で沈没。見事すぎる。

「…月が五角形に見える」
「なにそれ。星じゃん」

 この「なにそれ。星じゃん」もすごい。月が多角形に見えるという強力なモチーフを用いて、描かれるのは張り詰めた三角形だ。三角関係の恋愛ものはいくらでもある。いくらでもあるだけに、それをどうやって表現するかというのは常に難題だ。そこへこんなアイデアを持ち込むとは。唸るしかない。

 円にまつわる計算は無理数であるπを数値化しようとする時点で近似に落とし込まれる。円周率を丸めれば円は多角形になる。仮に円周率を3とすれば月は正六角形になるのだ。正六角形の中には正三角形がたくさん含まれる。あなたと彼女とわたし。三角関係を描くこんなに見事な方法があったなんて。

【No.20】 牡丹の上で猫はキリンの夢を見る

 どんなふうにしてこれを着想するのだろう。一読して脳裏に浮かんだのはそんな疑問だった。

 亮ちゃんと私の恋愛は、亮ちゃんの家庭の特殊な事情によって少々複雑な状況に陥る。結婚という要素が絡むと当人同士の関係性に、「家」という制度がしゃしゃり出てくる。亮ちゃんの「家」が濃いものであったために、二人の結婚は重苦しいものになりつつある。

 そこから急転直下、キリンの話になる。

 読みながら、わたしはどうすればこれを書けるだろうかと考えた。どうすればというのは技術的な問題ではなく、どんな順番で着想すればこの形に行きつくのか、ということだ。

 例えばキリンの交尾について得た知識があるとする。

キリンの交尾は9割がオス同士

 これは面白い。使えるネタだ。間違いない。しかしどうやって使うのかという問題がある。この巨大なインパクトをもたらす知識から発想したとして、彼氏の「家」が重たいという話を思いつけるだろうか。

 キリンの首の話も登場する。進化論だ。進化は突然変異と自然淘汰によってもたらされる結果であって、その途上に起こる事象の一つ一つは進化と呼べるものではない。そういった進化論の知識をキリンに絡めて論じるとして、このシチュエーションを思いつけるだろうか。

 全くできる気がしない。断片を得たとしても組み上げることができそうにない。なんということだ。うんうん唸りながら舌を巻くよりない。

【No.21】 近未来 fall in love

 ニューノーマル。まさしくポストニューノーマル時代を描いた作品と言える。小沢健二が「口元は新たな股間」と称したように、これからの時代、口元というのは性器周りと同じような秘部となっていくのかもしれない。もともとキスは粘膜の出張所たる口が担っているセックスの代用であり、口は第二の生殖器である。これまでオープンになっていたことのほうがおかしくて、本来顔にもパンツを履くべきだったのだ。

 この作品の面白さは「僕」のズレにある。

僕は彼女が気になるだけ。
別に、好き、とかではない。

 中盤のこのフレーズで、え? そうだったの? と思うわけだが、その後も、どう見ても好きだろという話が展開される。そして件の、口元を見てしまう事件が発生するのだ。われわれの時代の口元ではない。「新たな股間」と化した口元である。それはもう、素っ裸を見たのとほぼ同義だ(違うかもしれない)。

 そこはかとないエロスを滲ませながら物語は進むのだが、ラストで強烈なピリオドを打つ。そのピリオドはよく見ると青のりなのである。

 なんという鮮やかさ。口元股間リモート時代のボーイミーツガール。そこまでなら書こうとする人は多かろうし、手も届きそうな気がする。でも青のりは打てない。それはなかなか忘れられない鮮明なビジュアルだ。

【No.23】 マチルダ

 この作品は「レオン」を知っているかどうかで印象がまったく変わってくるだろう。

髪を切った。「レオン」を見たからだ。

 もうこの冒頭だけでノックアウトだ。これを書きたかった。この文を、書きたかった。試合開始のゴングと同時に強烈なストレートを食らったボクサーのように一気にマットへと沈みそうになっていた自分を奮い立たせ、先を読む。「わたし」の言葉が続く。

 なんてこった。この「わたし」を書きたかった。なんとか頭を振って体制を立て直したわたしは、相手の目を見据えたまま視界の外から飛んできたアッパーカットを食らって吹っ飛んだ。

 倒れざま、わたしの方へ人差し指を向けたマチルダが言った。

「バーン!」

【No.24】 わたしはだぁれ

 タイトルを見た瞬間、やられたと思った。これだろ。これだ。「仮面おゆうぎ会」の主旨にぴったりのタイトル。これだ。これを書かねばならなかった。

 完璧なタイトルを持ってった作者に拍手を送りつつ歯噛みしながら読んだ。心地よい詩だ。するりするりと歌を聴くような感覚で読んだ。読み終えて、あれ?と思った。「わたし」は誰なんだろう。大人になっていく過程で捨ててしまう多くのもの、こと。大切にしまったはずなのに持っていることすら忘れてしまったもの、こと。「わたし」は誰なんだろう。わたしは「わたし」の声を聞けるだろうか。「わたしは、だあれでしょう」というその声を聞くことさえ、できなくなってはいまいか。

 こんな後味を残す作品を書きたい。書けるようになりたい。

【No.25】 芽生え映え

 幻想的なことが始まってそういう話かと思いきや、そこから「バえ」というキーワードを軸に「フォロワーが欲しい」みたいな身近なところへつなげる。爪から草が生えるという強烈なイメージをポンと置き、それをきっかけにした恋愛の始まりを匂わせる。さらに。

ご両親の馴れ初めも同じだったら、本気で草生える。

 ネットスラングや現代用語を散りばめていき、最後に直接的なメッセージを。そうだった。このイベントはスキの数を競うのだ。なんということだ。こんなにも自然に「スキがいっぱい欲しい」とど真ん中に直球を放つとは。ひれ伏した。悔しいほど面白い。

【No.26】 Vanillaトレイル

 冒頭、くるぶしのくだりで鳥肌が立ちそうになる。靴下からはみ出したくるぶしが脳を溶かすという感覚はとてもよくわかる。それにタイトルもいい。

 同棲しているカップルの、わずかな行き違いによるもやもや。思いは向かい合っているのに、小さな誤解が積み重なってわだかまりになるということ、あるよね。その切ない行き違いを細やかに描いていてひりひりする。誤解がほどけて幸せが訪れた時、自分のことのようにホッとする。この感情の波立ちを読み手に体感させる技量に舌を巻く。わたしなど登場人物の誰とも近くなく、どの人もかなり遠い存在だ。それなのに彼女たちの間にたゆたっている湿度を感じる。はたしてわたしはこんな文章を書けるだろうか。

【No.27】 交差する雨音

 雨音は好きだ。雨音を楽しむために雨戸のある部屋を借りる男の話(『ユニゾン』)を書いたことがあるほどに、雨音は好きだ。壊れかけた雨どいが音を立てる。

すったんすったん

 まさに今その音が聞こえてくるようだ。すったんすったんの向こうにはしゃーもぴたぴたぴたもてんてんもぽつぽつもあるだろう。雨は雨だけでは鳴らない。雨どいが、屋根が、窓の手すりが、垣根の葉が、往来のアスファルトが、雨を受けることで歌っている。その情景がたったこれだけの擬音で立ち上がってくる。

 快適とは言い難い寝床で安っぽい部材が雨と奏でる複雑な音を聞きながら、かつて愛した人からの久しぶりのメールを読む。一部始終は甘く優しい腕の中の出来事。幸せって理屈じゃないんだという気がする。晃一は気づかない。彼女が束の間思い出をしまいに四次元へ行ってきたことに。雨音でこれを表現したことに「やられた感」を覚えた。こういう芸当をできるようになりたい。

【No.28】 闇を、書く。闇を、売る。

 メッセージだ。この作品がわたしに言う。「あなたもそう思うでしょう?」と。

 ここに書かれているようなことを一度ぐらい思ったことがあるという人、少なくないのではないか。精神的に不安定だったりギリギリのところで保っていたりする人は世界の見え方が異なっているはずで、そういう視点で世界を見なければ書けないようなことはきっとあるだろう。その世界を見たことのないわたしにはそれが書けるようなものなのかすら、想像することぐらいしかできない。

 読み進めながら頷くわたしを「彼女」が笑う。

悩むのもタイガイにせえよ

 そしてラストの一文。このラストの終わり方がうまい。そこに「了」が置かれるのか、という驚きがある。

【No.29】 また一緒に良い仕事をしよう

 魅力的なサラリーマン小説だ。サラリーマンという職種にはドラマがある。それこそ無限のドラマの可能性がある。仕事のあと酒を呑みに行く。そんな光景も珍しくない。その「呑みに行く」をどんなふうに描けるかには、どんなふうに生きているかがにじみ出る。

 この作品の呑み屋のシーンは見事だ。銀行という組織も、日本酒を出す呑み屋も、わたしの日常から遠すぎてまったく書くことのできない世界だ。本筋に関係ない小料理を店員が持ってくる。無くても物語上何ら問題のない情景。しかしこれがあることで、このシーンが小説になる。なんて巧みなんだろう。

 城崎さんは「粋」だ。ことさら偉そうなことも、後輩を導くようなことも言わない。呑み屋でも特にかっこつけたりしない。でも隅々まで気遣いが行き渡っている。こんな人物を書けるようになりたい。

総論

 全員うますぎである。どういうことなんだ。いちいちひれ伏し、打ちのめされ、逆立ちしても届かないことを確認し、解脱しそうになる。

 さらにその後の種明かしで、「実は初めて小説を書きました」という人が何人もいた。どういうことなんだ。

(中学生のころからひっそりと小説とも詩ともつかないものを書き続けていたけれど)今回初めて(企画イベントに出すようなものを)書きました、という意味じゃないのか。

 とりあえず全部見渡して、これは今回初めて書いた作品だな、と思うようなものは一個もない。いずれ劣らぬ手練れ揃いであると思う。

 わたしが初めて書いた作品などまるで小説にもならない悲惨なものだった上、わたしはその作品がコンテストで散々な結果になるまで、自分の書いたものが小説になってすらいないということに気づきもしなかったのだ。そう、スタートラインがまったく違う。

 今回初めて書いたという人、ぜひ自信を持って書き続けてほしい。今回初めてじゃない人は、言われなくても書き続けるでしょう。ここにはこんなにも豊かな書き手たちが集っている。それはもう本当に、得難いことだと思うのです。

※最後に、明かされた作品のまとめを貼っておきますね。


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