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一億総クリエイターの落とし穴

 誰もがクリエイターだ、とよく耳にするようになった。良いことだと思う。note などもそれを支援するプラットフォームであろう。だれもが何かをクリエイトし、それを発信できる。

 デジタル技術の進歩がモノづくりの敷居を下げた。写真、絵、音楽などデジタル化されやすいものほど身近になった。さらにプラモデルのようなデジタル化されないものも、金型や素材の技術が向上したことにより、組み立てやすさは30年前と比較すると各段に向上している。

 インスタ、Youtube、Sound Cloud など、成果物を発信するプラットフォームも充実している。stand.fm などはプラットフォームとコンテンツ制作ツールをまとめて提供している。

 誰もが簡単に作品を作り、それを世界に発信することができる。文字通り、総クリエイター時代の到来だ。

クリエイターにはいろいろある

 さて、わたしはこのような文章を書いているが、基本的に誰もがクリエイターであるという今の状況は素晴らしいと思っている。しかし同時に、それが一部で不幸を生んでいることも感じる。

 わたしは社会に出て二十年以上経つのだけれど、その間ずっと何らかのクリエイターと呼ばれる仕事に携わってきた。いわばプロのクリエイターである。もちろん名の通った有名なクリエイターではないけれど、クリエイティブ産業の中で現場のクリエイターとしてモノづくりに参加し、それによって生計を立ててきた。現在も一応そうだ。

 一億総クリエイター時代の不幸は、クリエイターにはいろいろあるのに、それが「クリエイター」というたった一つの語で片付けられているところにある。だれもが作品を作って発表できることは大変すばらしいと思うのだけれど、誰もが同種のクリエイターではないし、そうある必要もない。でもワードは「クリエイター」一つしかない。ここに不幸の種がある。

 クリエイターにはまず、プロ、それで生計を立てている人と、そうでない人がいる。またプロでも、大きなクリエイティブチームの中で機能するクリエイターと、自分の名前でモノづくりを先導するクリエイターがいる。前者は1を10にするクリエイターで、後者は0を1にするクリエイターだ。例を挙げるなら、宮崎駿さんという後者のクリエイターがいて、そこに前者のクリエイターが集結してスタジオ・ジブリができている。そのチームが数々の名作を作ってきた。

 クリエイターという語がカバーしている範囲はあまりにも広い。一億総クリエイターはこの超広い範囲の中に分布している。自分がどういうクリエイターなのか、さらに言えば、どういうクリエイターを目指しているのかによって、「クリエイター」の中身は異なる。それが曖昧になっているから、わけのわからない苦しみが生まれ、変に不幸になる人が現れる。

脱クリエイターのススメ

 なんとなく自分はクリエイターであると思っている人には、まずクリエイターという語を捨てることをお勧めしたい。なにか別の言葉で言い代えるという意味だ。〇〇クリエイターという言葉はたいてい、もっと具体的な別の言葉で置き換えることができる。ゲームクリエイターと言えばゲーム制作に関わる職種の大部分をカバーするが、その大部分を全部やる人はまずいないわけで、ゲームプログラマーなのか、ゲームプランナーなのか、あるいはサウンドデザイナーなのか、キャラクターデザイナーなのかモーションデザイナーなのかあれやこれや。おそらくクリエイターではない別のもっと具体的な言葉があるはずだ。

 あなたもわたしもクリエイターだ。いったい何をクリエイトしているのか。それをまずははっきりさせる。そもそもクリエイトというのは何かを作り出すということだけれど、それは何も0から1を生み出すことだけを意味しない。例えばミュージシャン。プロのミュージシャンのうち、自分で作曲をする人というのはどのぐらいいるだろう。割合として、そう多くはないはずだ。彼らは他人が生み出した楽曲を形にする仕事をしている。レコーディングエンジニアみたいな人々はもっとそうで、彼らの仕事は0から1を生むことではない。しかしもちろん彼らは重要なクリエイターで、極めて特殊なクリエイティブを発揮する。(しかしおそらく大部分のレコーディングエンジニアは、あなたはクリエイターかと聞いたら違うと答えるだろう)

プロであるためには

 これまで「クリエイティブ」と形容されそうな仕事をいろいろやってきて、いわゆるクリエイターっぽい仕事をする上で重要なことは、「目指しているのはどこか」を正しく把握することだった。それは個々の仕事でもそうだし、自分自身の人生においてもそうだ。

 今やっているその創造的な行為の目的地はどこなのか。目指す完成形がどういうものか、ということ。それを把握できずに仕事はできない。ゴールは明確に提示されていることもあれば、自分で見出さねばならないこともある。共通しているのは、ゴールがわからないままスタートするとろくなことにならない、ということだ。

 プロのクリエイター(捨てろと言っておいてこの言葉を使うのは、あえて広い範囲をカバ―したいという意図があるから)は、それによって対価を得る、という絶対的な目標があるため、その対価はどこから得るのか、ということによってゴールを見極めなければならない。自らに期待された内容が対価の向こうにある。これは何もクライアントワークだけを指しているのではなくて、アーティストだったとしても、それが対価を生むためには、その対価を支払う相手のことは想定する必要がある。その期待に応えられなければ対価は得られず、生計が立たなくなる。(その期待の中には、「期待を裏切る」ということも含まれる。期待を裏切ることを期待されている、というケースは往々にしてある)

 プロは対価を得る必要がある、という話をすると「対価を得るために誇りを捨てる」みたいな方向に解釈されがちなのだけれど決してそうではない。むしろ誇りを捨てないと得られない対価ならその仕事は受けないほうが良い。求められているのは自分ではない、ということに他ならないからだ。

 ここに書いていることはプロではない人に向けたものだ。プロではない人がプロを目指すときに知っておいた方が良い(とわたしが思う)内容といっても良い。すでにプロである人には釈迦に説法であろう。

外野は基本的にうるさい

 一億総クリエイターによってクリエイター化した、これまでクリエイターではなかった自覚のある人たちに伝えたいことがある。それは、「外野はうるさい」ということ。

 note もそうだけれど、「誰でもクリエイターになれる」ということを声高に謳う人々はとにかくおせっかいだ。わたしは今この投稿をPC を使ってnote のサイトの投稿画面に入力しているが、右の方に「note のヒント」としてクソどうでもいいことが書かれている。

「もっとも大事なこと」というのが一番上にあるが、わたしに言わせれば最も大事なことはこの「もっとも大事なこと」を読まないことだ。

 創作というのは自由なものだ。これまで何かを作ろうとすると、その途上で身につけなければならないスキルが非常に多かった。絵作りが頭の中にあってもそれを写真にするには写真の技術を身につける必要があった。メロディが頭に浮かんでもそれを形にするには楽器を演奏できたり、録音したりする技術を身につける必要があった。

 デジタル技術はこの技術的な部分をだいぶ簡略化した。それによってアイデアさえあれば作品を形にすることができるようになった。もちろん技術がすべて必要なくなったわけではなく、前に書いたように、この現象によってデジタル化以前の技術を持っている人の価値はかえって高まったと思っている。

 創作を始めようとする人に必要なのは、用意された技術の使い方を覚えることだけだ。つまりnote のヒントとして必要なのはこのインターフェイスをどうやって使うか、という部分だけである。それ以外の創作のマインドみたいなものは全部、余計なお世話だ。はっきり言って、聞かなくてよろしい。

 noteのヒントの下の方には「記事が書けたら」という項目がある。記事が書けたら下書きにおいておくか投稿するかのどちらかで、好きにしたらよい。公開するだけでは読まれませんよ、とかいうことが言われたり、頼んでもいないのに「もっとこうしたらいい」というようなことをあれこれ言ってくる人もいたり、創作するにあたってのノイズが多すぎるのだ。クリエイティブなことに挑戦しようと思っている人に必要なのはなによりも「自由なマインド」であって、ネット上にはそれを疎外するノイズが多すぎるのである。

 だから、何かを作ったらそれが誰かに評価されねばならない、といったわけのわからない先入観に苛まれるし、評価されないと価値がないのかもと思ったりする。すべてどうでもよろしい。note がたくさん読まれることを目標にさせたり、有料記事を書いてみようとか勧めたりするのは、すべて自分たちにとっておいしいからであってあなたのためではない。他の多くの作品をマネタイズできるサイトもすべて同じだ。あなたの作品が売れるとプラットフォーマーが潤うという仕組みがあるから、売れるものを作ってほしいと言っているに過ぎない。

 それをどう利用するかはあなたやわたし次第であり、「どうやって使うのか」という取扱説明書的な部分を除いて他の要素は全部余計なお世話である。

 もちろん、わたしがここに書いていることも余計なお世話の一つであり、あなたにとって必要なければ読む必要はないし、まして記憶しておく必要などない。すべてのアドバイスに対してそういう姿勢で聞くのが良い。

プロになりたい場合は

 まず、プロになりたい、というのは目標になり得ない。あるのは「こういう風に金を得たい」ということであって、「プロになりたい」というのは夢にもなっていないほど漠然としていすぎる。プロのクリエイターになりたいのであれば「プロになりたい」という言葉は今以降口にしないことだ。もう少し具体的なビジョンを持たない限り永遠にプロにはなれまい。

 重要なポイントは、自分の芸術性を発揮して好き勝手に作ったものに対して金を払ってもらいたいのか、それとも技能を提供して対価を受けたいのか、ということだ。多くのプロのクリエイターはこの後者だという現実がある。

 さっき書いたように、この後者は「自分の個性を捨てる」みたいなそういうことには直結していない。多くのプロは自分にしかできない持ち味を発揮しながらクライアントを満足させて対価を得ている。なぜならそうしないと博打みたいな人生になるからだ。博打でいい場合は前者を目指したら良い。その場合すべきことは、自分が好き勝手に作ったものに金を出す人を探すことだ。黙って作るだけではそんなものに誰も金を払うはずがないわけで、それを誰かに売り込む必要がある。好き勝手やりたいのであれば、例えば売り込んだときに「もっとこうだったら買うのにな」とか言われても一切耳を貸さないことだ。ここで「それなら直します」ということをやるともはや地に堕ちる。最初から後者のプロを目指した方が良い。

 資本経済において金の流れは需要と供給に起因するので、あなたの供給を必要としている人、あるいは場所を探せば良い。逆に、場所が先に見つかったら、そこで必要とされている能力を磨けば良い。そうすればおのずとプロになれる。もちろん、理屈はあっけないほどシンプルだけれどそれを実現するのは難しい。

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