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[戯言戯言日記]してみんとて

をとこもすなる日記といふものを をむなもしてみんとてするなり

とは、土佐日記の有名な冒頭であるけれども、現代においては日記というのはむしろをとこよりもをむなのほうがすなるのではないかと思ったりなどする。土佐日記を著したのは紀貫之というたぶんをとこの人であり、ここにはをとこもすなる日記といふものをしてみんとしたをむなを装ってをとこであるところの紀貫之がしたためたという入り組んだ構造が見受けられるのである。

 そんな土佐日記を読んでみたとかいうことではまったくなく、日々を記す日記といふものをしてみんと思ったのでするなり、ということをお伝えしようと思った次第であります。

 もとより日記は日々記しておるのであります。日記帳に。五年日記という同じ日付の日記を五年分まとめて見られるスタイルの日記帳を使い、もう十五年ほど、書いている。一日分はわずかなスペースなので書けることなど限られているのだが、ほとんど大きなことの起きない日常を記すのに不足はない。

 本当か?

 わずかな字数でその日の出来事を記す。確かにそれも日記だ。でも残されているのはほとんどメモのようなものだ。晴れていた。牛の糞みたいな匂いがした。カラスがゴミを散らかした。雪が積もった。キツネが歩いていた。映画館へ行った。大便みたいな臭いが立ち込めていた。

 そんなメモのような日記は確かに日々の記録ではあるけれど、寝ている時間も含めて一日二十四時間生きていて、ワンツイートにも満たないような記録で足りるのだろうか。たしかに選び取った百字程度の内容は興味深い。映画を見た日だって映画一本を見て他に何もしないはずはなく、飯も食えば糞もしたはずだがそういったことは書かれない。何を捨てて何を書くのか。スペースが狭いからこそ面白いという日記がそこにはある。

 しかしせっかくこのnote がある。ここに、日記帳に書かなかった日々の何かを書いたら良いのではないかと考えた。どうせたいしたことは書かれまい。なにしろわたしの日常なのだ。ザレゴトやタワゴトであふれることだろう。ザレゴトとタワゴトはどちらも「戯言」だ。だから「戯言戯言日記」。ルビを振らなければ「ザレゴトタワゴトニッキ」なのか「タワゴトザレゴトニッキ」なのかもはっきりしない。もしかしたら「タワゴトタワゴトニッキ」かもしれない。全部寝言みたいなものだ。

 そんなような姿のはっきりしない、目的も見つからない、なんだかわからないものを書く日記といふものをしてみんとてするなり。こうしたものはきっと5月の1日から始めるとか、そういった節目のようなものを意識した方がすっきりといくのだろうが、思い立ったが吉日、あまりすっきりいかないほうがわたしらしいのではないかという思いもあり、と言えば言えなくもないからあとから付けただけでほんとうはたいしてなにも考えていないだけでもあるのだけれど、してみんとてするのだ。シテミンビタミンビオフェルミン。

「茶色の小瓶」という曲のタイトルを聞いて思い出すのはいつもビオフェルミンの瓶であった。

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