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自分に厳しい鬼タイプの生き方

 先日、はとださんの手になるこちらのnote を拝読しました。

 かなり読まれていたようなので、既にお読みになった方も多いでしょう。未読、という人はぜひ読んでください。わたしがこれからここに書くことよりもずっとためになることが書かれています。

 とてもステキだなと感じたのはこの部分。

自分を責め続けてしまうとき、「その言葉、周りの人にも言える?」と問うてみる。

 わたしは割と自分を責めまくりの、自分で自分をボコボコにしちゃうタイプなのだけれど、自分と同じようなことで落ち込んでいる人を見ると心から励ましている。励ましているとき、そこに偽りはまったくなくて、心底、そんなに悩まなくて大丈夫だよ、あなたが頑張っていることは知っているよ、と声をかけたりしている。

 それなのに、いざ自分に同じことが起こると、そんなことでへこんでいるようじゃ話にならん、マズイ結果が出るのは力が足りないからだ、詰めが甘いからだ、あれもこれも足りないからだ、と責めまくり、ボコボコにしてしまう。

 他の人に対しても同じように感じながら、口先だけで励ましの言葉をかけているのならまだわかる。自分の内側では矛盾がないから。でもそうではなくて、本当に心から、そんなことないよ、と思うのだ。なのに自分では「そんなことない」とは微塵も思わず、己がヘボいからダメなんだ、と容赦ない。

 なぜだろう、と考えてみた。

 …。

 マゾだからだ。

 え? もしかして? そういうこと?

 ダメだ、足りない、まだだ、もっと頑張るんだ、誇れるものなど何もない、そんな程度なら辞めてしまえ、と、絨毯爆撃のように撃ちまくり、うぎゃーと血まみれになってぶっ倒れる。心が血だらけだ。

 ぶっ倒れてからが本番だ。立ち上がれ。希望など何一つなくても、真っ暗闇の中に立つんだ。You're King of Kings.

 なんというこの時代錯誤感。どうもキン肉マンであり、北斗の拳な世代のわたしには、熱い魂で苦境から這い上がる系の何かが根底に流れているのかもしれない。

 もちろんこんな血迷った生き方(イキり方かもしれない)は誰にもおすすめしないし、わたしももっと自分に優しくなりたい。でもわたしの中には病的に、「自分が自分を甘やかしたらそこでなにもかも止まる」という強迫観念みたいなものがある。結果が及ばなくてもやれるだけのことはやった、みたいなことを自分で言ってしまうと、それが本当は言い訳でも正当化されてしまう気がする。

 くどいようだけれど、これはわたしが自分自身についてのみ感じることで、汎用的な感覚としてこうだと言っているわけではないし、わたし自身、自分以外の人に対してこのようなことは思わない。なぜか自分に対してだけ、フォローするようなことを言うと全部言い訳になって、その安寧からなにもかもがほころびるような気がする。きっと確たる自信がないのだろう。

 このマゾヒスティックな自己叱咤をしていてもわたしが折れないのは、わたしが強いからではなくて、基本的にわたしは自分が好きだからだと思う。少々ナルシスト気味なぐらい、自分が好きなのだ。だから、自分に対してダメだ、無能だ、手抜きだ、出直せ、などと攻撃的なことを言っていても、その裏に自己愛があって、自分でおそらくそれをわかっているから、耐えられるのだと思う。

 自分を責めすぎて苦しくなってしまう人は、きっと根っこのところで「どんなにダメでもわたしはわたしが好き」という無条件の自己愛みたいなものが無いのだろう(ある人の方が少ないような気もする、少々勘違い野郎ってことでもあるので)。逆に、この勘違いみたいな自己愛があると、割とひどい状況でも切り抜けていける気がする。

 と、結局わけのわからない論理をこねくり回しながら妙な自己肯定をしているようなものを書いているのは、自分でとても面白いと気に入っていた作品がある公募で歯牙にもかからずに散ったからです。無冠更新中。

 不思議なもので、とても面白いと思って書いたし、読んだのだけれど、客観的にぜんぜんダメな結果が出ると、あちこち、「そりゃダメだよな」と思うようになるのですね。気に入ってこんなのが書けたと思ったものが、こんなのしか書けない、という肌触りになり、次はもっと上を、と思う。

 仕切り直してまた長編を、書こうと思います。逆噴射のやつの続きを書こうかな。

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