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小説「ある日」

 ある日目が覚めるといつもの光景と違う。そんな日が来ると想像はしていた。
 
 前日に胸騒ぎがしていた。
 朝唐突に目が覚めると、曇った外の様子がカーテン越しにも分かった。光が届いてないからだ。
 夢を見ていた。夢の内容は覚えていない。ただ薄暗い気持ちになるような内容だったことはかすかに記憶の中に残っていた。
 目が覚めた時、うっすらと汗ばんていた。6月のだるい気配とともに嫌な気持ちになった。
 
 この春、大学を無事卒業して、晴れて新入社員としていわゆる大手の建築メーカーに勤め始めた。これと言って大きな失敗もなく、可もなく不可もなく、最初の三か月が過ぎようとしている。五月病と言われる落ち込みもとくにはなかった。営業の成績は良い方だった。君は新人としては上手くやっているね、と部長にも声をかけられた。ありがとうございますと無難に返事した。
 ―ありがとうございます。
 何に対してだろうか?不満もないかわりに、だがしっくりと来ない毎日だった。
 彼女とは社会人生活3ヵ月で別れた。たった3か月でそれまで4年も付き合っていたことがなしになった。それに対してさして文句も言わなかった。ただ、別れた、その事実があっただけだ。
 ―上手くやってるね。
 本当にそうだろうか。その朝、ちらと思った。気だるくまとわりつく重い空気を感じながら自分の中に沸き起こった感情に少し驚いた。
 このまま日常が過ぎて、誰かと適当に結婚し、可もなく不可もなく人生は進んでいくのだろうか。
 本当に。・・・本当に?やりたいことはないのか?これは本当に自分の人生だろうか?
 何か漠然とした曇りを胸に感じながら、足にまとわりつく猫を振り払い会社に向かった。
 
 翌朝、引き続いてどんよりとした曇りだった。
 何かが違っていた。その何かに気づくのに時間はかからなかった。
 猫が冷たくなっていた。いつも起きると真っ先に駆け寄ってくる猫が、柔らかい毛布に包まれたソファの上で冷たくなっていた。もうすでに息を引き取っていた。
 
 その瞬間何かが壊れる音がした。うっすら自分を守っている、いや縛り付けている何かがはじけとんだ気がした。
 猫を抱き、泣いた。これからどのような人生を歩もうとも、空気のようにそばにいると思っていた。その猫が死んだ。
 ニャー・・・
 声が聴こえたような気がした。
 
 しばらくの放心の後、決心した。
 海外へ―
 海外へ行こう。
 海外へ行って、世界を見よう。
 日常は損なわれた。つまらない毎日を取り去るかのように、代わりに猫が死んだ。
 だったら、もうこの日常は自分には必要ない。
 きっと猫はあの世で、自分を待っている。きっと約束のように待っている。
 
 棚の一番端に追いやっていた本、「世界が君を待っている」を手にとった。
 行ってやる。
 海外へ行ってやる。
 このうすら曇りのような日常から逃れるために。
 何かがあるかもしれない。何もないかもしれない。
 だけどもう自分には無理だ。この予定調和な人生など。
 
 カーテンの隙間から光がもれてきた。光は死んだ猫の身体に柔らかく降り注いだ。
 一気に、カーテンを引き、窓を開けた。虹が空にかすかにあった。
 それは祝福の虹だ。その虹をきっと猫は渡っている。
 自分も行く。その虹の先の向こうへ。
 
 その日、いつもと違う光景が待っていた。
 
                   完

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