生まれながらに矛盾を抱えた存在

「良い声だね」と、最後に言われたのはずいぶん前になる。それにふと気づいて私は、何か大切なモノを失ってしまったのではないかと思った。今まで人に褒められていた私の声は、豊かな響きを失い、空気を震わせるだけの現象になってしまったのか。

「いや、洞窟じゃないんだから」と気丈に振る舞ってみても悲しいだけである。私の心はまさに空洞そのもで、その空洞から発せられる言葉はもはや言葉としての尊厳を失い、空気を震わせる現象でしかない。

かつての良い声の主はどこに行ったのか。私という空洞の中に閉じ込められ、巌窟男としてすすり泣いているのだろうか。そうとなれば、私は空洞であると同時に、すすり泣く巌窟男でもある。

だが、私は正規の巌窟男ではなく、非正規の巌窟男だ。当たり前である。私が巌窟男のオリジナルなワケがない。また、非正規とはいえ、私が巌窟男であることを知っているのは当の本人だけという状況。
なにせ、私は、私の中の空洞に比喩的に閉じ込められているだけなので、外から見てもそうとは分からない。ただの卑屈な野郎である。

その卑屈さだけが、身辺に漂い、そして心には非正規の巌窟男が住んでいるのである。偽物のミッキーマウスだって、着衣の表面にプリントされている。やけに平たくはあるが、そこには確かな存在がある。

それなのに、私の内なる巌窟男は誰からも視認されない。しかも非正規である。時期が来れば雇用は終わり、その存在さえ、消え去ってしまう。せめて、私だけでもその存在を心に留めておきたい。人は姿を消しても心の中で生き続けることができるのだから。

私は内なる非正規雇用の巌窟男のことを忘れないようにしよう。私の思いつき・軽はずみで生を授かってしまった巌窟男に対して私がしてやれることは、それくらいしかない。

だが、彼が消えるまで、私は給料を未払いにし、徹底的に追い詰めるつもりだ。それは私自身の生存のために欠かせない。なんといっても諸悪の根源は彼であり、あらゆる責任も彼にある。尻拭いをするのは、結局私なのだ。

巌窟男のせいで失った、良い声を私は取り戻さなければならないのだ。損失は大きい。非正規だからと言って、許すわけにはいかない。責任は取らなければならない。だが、彼はこう言うだろう。

「社長。責任って言いますけどね。そりゃー、取れる責任なら取りたいですよ、責任。私だって。
だけどね、私には責任能力だってないし、なにせ岩窟男だから仕事は引きこもりなんですよ。面接のときに確認しましたよね?
だから、その、声というか、洞窟の鳴り方?それに関してね、私に言われても如何ともしがたい。そう。如何ともしがたいです。
ははは。だってっそりゃそうでしょ。私は巌窟男なんだから、非正規だけど。
洞窟自体じゃないんですよ。
しかも、元々の専門は巌窟なんで、洞窟ってなるとちょっと勝手が違うというか、それも面接のときに確認しましたよね?
まあ、同じようなもんでも、概念?ってゆーか、やっぱ、全体と細部にはそれぞれのスペシャリストがいてこそ、ってゆーか。
ほら。サッカーとかでも、監督が選手より走れるわけじゃないでしょ?イタリアで通用してもスペインじゃダメとか。あるじゃん?」

言う。絶対言う。いや、もはや、言ったも同然。なにせ彼は私なのだから。もう言ったもんとして進めます。

彼はさらに続ける。

「しかも、どっちかというと洞窟は社長なんじゃないですか?ほら。作り的にってゆーか。だってほら、社長の空洞の中に私が居るわけだから。だから、それはやっぱり社長の責任なんじゃないかなーって思うんですよ。
いやね、別に責任を押し付け合うとかじゃなくて、元々、私、責任とれないし。そもそも責任能力ないし、はは。
いや、それはまあ良いんですけど、あくまで責任の話で言うならってことですよ。客観的に考えるなら…。
いや、強いて言えばですよ?やっぱ、社長にあるんじゃないかなーって。え?ほら、あれですよ。責任?でしたっけ?
僕、あんま詳しくないから分かんないですけど。」

ほら言った。少し甘やかすとこれである。どうしようもない。お話にならない。こんな輩に給料を払うわけにはいかない。こいつをなんとしても抹殺しなければならない。

「おい。偏屈男。いや巌窟だっけ?どっちでもいいか。どうせお前は非正規だからな。偽物の作り物なんだよな、お前なんか。
お前な、責任が自分にないだとか、有るとしたら社長にだ。とか言うけどな。
いいか。聞けよ。大事なこと言うぞ。そしたら、お前終わるから。
まあ最初から終わってるようなもんだけどな、お前なんて。生まれた時から終わってるんだよ。そもそも設定に難有りだったからな。
お前はカスなんだよ。俺の思いつきで生まれたカスなんだよ。よくもここまで引っ張ってくれたな。俺の命を返せ。時間は命なんだよ。なんでお前みたいな出来損ないのアイデアに時間使わなきゃいけないんだよ。
おい、待てよ。まだ聞けよ。なんか薄くなってるけど大丈夫?
あ、そうか。気づいたのか。そうだよ。お前はあれだ。カスだ。非正規雇用なのに引きこもりという矛盾を抱えた存在だ。普通この2つは同時に存在できないからな。生まれながらに矛盾を抱え生まれてきた、お前はもうすぐ消える。
そしてお前は俺になる。なぜなら、お前は俺だからだ」

そこまで言ったところで、非正規雇用の巌窟男は消えた。完全に消えた。むしろ、最初からいなかった。

おはようございます。思いつきで始めると良いことがありません。私は人を1人殺めてしまいました。


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